「はい終わり!」
志賀の合図でふっと目を開けた。
5分間暗闇を映し続けていた網膜に光が刺さってしぱしぱする。
「じゃあ今日もストレッチからねー」
百枝の声に「うーす」とか「おーす」とか、色々な音が混じり合った返事が反響する。
水谷は目をこすりながらその音のなかに自分の声を紛らせたが、ふと隣を歩いている阿部に気づく。
右の手のひら、さっきまで水谷とつないでいた手をやけにしげしげと見つめている。
「阿部、手、どーかしたの?」
マメでもできたのだろうかと思って聞いてみると、阿部は「あ?」と言ってこちらに視線をよこした。
「手だよー。なにじーっと見てんの」
「あー。別にどーもしねーけど」
「けど?」
「イヤ昨日の手ぇ触ったんだけどさ」
「え」
7月の早朝5時過ぎ、真新しい水色の空に負けず劣らずのすがすがしさで告げられた言葉に、水谷は思わず立ち止まった。
それに気づかないまま2、3歩先に進んだ阿部が、「どーした?」と不思議そうな顔で振り返る。
これ本気の疑問形なんだもんなあと思い、水谷は「つくづく阿部って阿部だ」と野球部にしか通じない論理を引っ張り出す。
「阿部ってばちょっともーやめてよ朝からそんなノロケー」
「ああ?」
何がノロケだよ、と阿部の顔がしかめっ面になるけれど気にはしない。
足取り軽く阿部に追いついて「それでー?」と促してみる。
「それでって?」
「初めて手ぇつないだんでしょ?いーなー初々しいつーからぶらぶでー。で、どーだったの?」
「どーって。とりあえずちっさかったな」
阿部が真顔で述べる素直な感想がなんだかやけに微笑ましく、水谷はにこにこしながらうんうんとうなずく。
「指ほっせえし」
うんうん。
「あとタコがなかった」
うんう
縦に振りかけた首に急停止をかけた。
「……タコ?」
空耳かと思って聞き返す。
嫌な予感がしていたので、恐る恐る。
「おー。三橋の手とぜんぜん違った」
あとよくよく思い出したらお前の手とも違ぇし。
阿部はけろりとそう答えた。
聞き間違いではなかったらしい。
「当ったり前じゃん!ヤローの手と比べてどーすんの!」
「え、だから、やっぱ女の手だなって」
「……うん……そりゃそーだけど……」
なんか、その実感のしかたって間違っているような気がする。
水谷がそう思っていると、「あ」と阿部が何か思い出したように小さく声を上げた。
「あと冷たかった」
「あー。じゃ緊張してたんだねー、さん」
「イヤ冷え性っつってたぞ」
冬とか大変だよな、と大真面目に言う男の横顔を、水谷はまじまじと眺めた。
「……阿部それ信じたの?」
「は?なんで疑わなきゃいけねーの?」
至って真剣な切り返しに水谷は一瞬言葉を失う。
それから深く溜め息をつく。
「阿部ってばわかってなーい!」
「何が」
「オトメゴコロをわかってなーい!ヒドイ男!」
何でだよと阿部に怒鳴られたが、花井に「お前らさっさとしろ!」と叱られたので慌てて円に加わった。
何がヒドイって、自分のヒドさをわかってないあたりが阿部のいちばんヒドイところだと思う。
こんなヒドイ男に引っかかってしまったクラスメイトに、だから水谷は肩入れせずにはいられない。
俺ちょー味方だかんねさん!
そんなことを思いながら前屈をする阿部の背を押すと力が入り過ぎたようで、
「いってえよ!」と怒鳴られたばかりか水谷が前屈の番になったとき痛い目を見た。
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