リトル・リトル・ブレイバー
できるだけ一生懸命歩いているのに、どうしても阿部くんに遅れてしまう。
なんだかそれはとても悲しい図で、保健室を出てすぐに、さっそく遅れた私の数歩先で立ち止まって振り返って、「大丈夫か?」と言ってくれた阿部くんに、だから私はなるべく早く追いつこうとする。
「ご、ごめんねっ」
「別に謝んなくていーって」
「あ、ご 」
めん、と続きそうになって口をつぐむ。
気づかれなければいいと思ったけどもちろんそんなのは無理な相談で、阿部くんは「まーいーけど」と言いながらもむっと眉を寄せる。
我ながら本当にとろいったらありゃしない。
申し訳なさと居たたまれなさにしゃがみ込みたくなるけど、それもやっぱり無理な話だ。
廊下のど真ん中でしかも阿部くんといっしょにいるのにそんな突拍子もない行動は取れないし、何より急にしゃがみ込んだりしたら湿布をしてもらったばかりの右足が悲鳴を上げるに決まっている。
憂鬱な期末テストが終わって、夏休み前のお楽しみ行事である球技大会1日目。
1年7組のサッカー女子チームは、見事2年6組を破って一回戦に勝利した。
だけど私の捻挫は、名誉の負傷、なんて立派なものでは断じてない。
そもそもサッカーかバスケかの二択でサッカーを選んだのは、155センチといういたって平均的な私の身長ではバスケの空中戦にはとても参加できないし、
それを補う敏捷性やコントロールにも欠けていることを重々承知していたからで、特にサッカーが好きだとか得意だとかいう理由からじゃなかった。
それでも地面を転がるボールを追っかけるだけなら私だって参戦できる、と思って、闇雲に走り回っていた結果がこれだ。
というか、ドリブルしながら向かってくる大柄な先輩に恐れをなして、逃げるか逃げまいか葛藤しているうちに軽くパニックを起こして突っ込んでいった私に10割非がある。
保健室まで付き添ってくれたクラスメイトには「ちゃんがあんなムボウだとは思わなかったなー」と言われ、
それを受けたもう一人の友達には「でもホラ、この子はこー見えて阿部くんに告るよーな勇者だし」というコメントをいただき、
「あ、そっか、そーいやそーだね」とものすごく深く納得されてしまった。
今後クラス内で、恐れ知らずで猪突猛進というイメージが定着してしまうのではないかとちょっと不安に思っている。
「ゆっくり歩けよ」
足いてぇだろ、と言う阿部くんの視線が、ひょこひょこ引きずっている私の右足に落ちる。
「軽くてよかったな」
「あ、うん」
インパクトのわりに怪我自体はそこまでひどくはなく、保健の先生の見立てによれば1週間ほどで治るでしょう、とのことだった。
ちょっとびっこはひいてしまうけど、自分で歩けるし。
あとは手のひらや膝を少し擦りむいただけだ。
「一応医者行けよ」
「うん」
「にしても、そんなすげー吹っ飛び方したのか?」
「え、あ……あー」
阿部くんにそう聞かれて私は答えに窮する。
不幸中の幸いで、私の負傷シーンを阿部くんは見ていないのだ。
昼休み、花井くんといっしょに三橋くんの家へ行ってきたという阿部くんは、顧問の志賀先生に三橋くんの様子を報告がてら数学準備室へ直行したらしい。
試合開始のホイッスルが鳴る前からほかの7組の男の子たちといっしょに私たちの応援をしようとスタンバイしてくれていた水谷くんと、
阿部くんと別れて男の子たちに合流した花井くんがかけた何十回にもわたる(水谷くん談)電話に気がつかなかったのは、
そのまま昨日の試合のビデオを観ながらの反省会になってしまったから、だそうだ。
私が保健室へ向かってからすぐ、業を煮やした水谷くんが直接数学準備室へ赴いて、私の不慮の途中交代を知らせてくれた。
もー阿部ってば信じらんないよね!
阿部くんといっしょに保健室に駆けつけてくれた水谷くんはそう言って阿部くんをなじったけれど、私はそのタイミングで阿部くんの頭が野球モードに切り替わってくれたことを心から感謝する。
だって、あんなかっこ悪くて恥ずかしくて情けない瞬間、阿部くんに見られたらきっと死にたくなっていたと思う。
クラス中の人に目撃されただけでもかなりのトラウマになりそうなのに。
「自分じゃあんまり覚えてない、かも……」
大きな壁にどーんとぶつかったような衝撃は記憶しているけど、事細かに説明できるほど鮮明じゃないし、
そんなことを話して聞かせてもな、と思って曖昧に返事をする。
阿部くんはあきれたように肩を落とし、私はますます決まり悪くなった。
「ほんと、こういうの手ぇ抜けねえよな、お前って」
「へ……?」
「いーけどさ、そーゆーとこ」
「こういうの」が何を示すのか、「そーゆーとこ」がどんなところでどう「いー」のか、私にはさっぱりわからなくて気になったけど、
阿部くんは自分の言葉にすっかり納得し切っている様子だったから、聞き返したら頭が悪いと思われそうで、私のはてなは宙ぶらりんになってしまう。
「帰りどーすんの?チャリこげねえだろ?」
「あ、うん、家に連絡してみる」
「そっか。送ってやりてえけど俺は練習あるから遅くなるし、そっちのがいーか」
「へ、え!?」
送ってやりてえけど、の部分にびっくりして変な声が出た。
なに、と阿部くんがきょとんとしてこっちを見るので、私は慌てて首を横に振る。
「なんでもないっ」
ふうん、と言った阿部くんの顔はまだちょっと不審そうだったけど、とりあえずまた前を向いてくれたのでよかった。
無造作に当然のことのように発音された、「送ってやりてえけど」を頭のなかでこっそりリピートしてみる。
どきどきした。
すごく、「彼氏」って感じがする言葉だった。
「そ、そういえば、三橋くん、大丈夫だった?」
胸の奥がこそばゆくて、顔の温度が2、3度上がったような気がして、その感覚から意識を離したくて聞いてみた。
昨日の試合のあと三橋くんはダウンしてしまって、選手のなかではただひとり、学校ではなく直接おうちに帰ってしまった。
今日も学校を休んでいるらしくて、阿部くんは昼休み、その様子を見に抜け出していたのだそうだ。
「あー。ヘロヘロだった。アイツ体重3キロも減っちゃっててさー」
「さ……3キロ!?昨日の試合で!?」
「おー」
驚いて一瞬声が出なくなった。
3キロ。
体重を3キロ減らすのに、私はいったいどれだけ長いあいだお菓子を我慢して、辛い運動をしなければならないだろう。
それを三橋くんは昨日1日で失ってしまったのだ。
昨日の試合は私もずっと見てたのに。
その合間に、あの三橋くんの華奢な体からどんどん重さがなくなっていたのだろうか。
「すごい……」
投手ってほんとに大変なんだ。
すごいとか大変とか、私の陳腐な語彙ではそんな言葉しか出てこないのがまた申し訳ないけど、私は思わずそう口走った。
「まー食べるのは普通に食べてたからまだいーんだけど。減った分取り戻させなきゃだし、疲れも残ってるみてえだったし」
まだ熱っぽかったし、次の試合まで1週間しかねえし、しかも田島もケガってるし。
し、を重ねるごとに阿部くんの眉間が狭くなっていく。
「た、田島くん、怪我しちゃったの?」
そのわりには午前中、それはそれは元気に運動場を走り回ってるのを見た気がするんだけど。
田島くんのいるところにはいつも歓声が起こっているからすぐわかる。
「あー、手首をな。初戦勝っただけだっつーのにホントに……」
頭痛ぇよ、と言う阿部くんの声は溜め息混じりだった。
でも、阿部くんは初戦に勝っただけ、と言うけれど、勝った相手はあの桐青なのに。
昨日の応援席はまるで優勝したみたいな騒ぎだったし、今朝だって7組の教室内はその話で持ち切りだった。
担任の先生もHRで野球部の話をして、「球技大会も頼むよー」なんて言ってたのに。
でも阿部くんの顔には、浮かれたところなんてまるでなかった。
昨日の夜、勇気を振り絞ってやっと送った「試合お疲れさま。初戦突破おめでとう!」のメールへの返信(たった一言綴られた「ありがと」)のように、
いつも通りのシンプルでそっけない表情と雰囲気のままだった(ただいつもよりちょっと眠そうだったけど)。
阿部くんが見つめているのはやっぱり、もっと上、なんだなと改めて思う。
「阿部くん、は、平気?」
「あ?」
「あの、どこも怪我してない?」
「……してねーけど」
なんの悪気もなく聞いたつもりだったのに、なぜか阿部くんの声のトーンが低くなる。
あれ、おかしいなと思いつつ、なんだか言い訳めいた口調で言い募ってしまう。
「あ、ほら、昨日、スゴイぶつかられてた、から」
「別にどってことねえよ、あんなん」
「あ、そう……」
それなら別に、いいんだけど。
私は何か気に障るようなことを言ったんだろうか。
阿部くんの顔と声は明らかに機嫌が悪くなってしまった。
どうしよう、でも原因がさっぱりわからないし、わからないまま謝ったらもっと怒らせてしまいそうだ。
すぐ横から発せられる不機嫌オーラから目をそらしつつ必死で考え込んでいると、「つーかさ」と阿部くんが口を切ったので私の背筋はしゃんと伸びた。
「な、なに?」
「担ぐか背負うかしたほーが絶対早いと思うんだけど」
「……え?」
いきなりの提案だったけれど、阿部くんの言葉には肝心の主語も目的語も抜けている。
ので、私はぽかんとして聞いた。
「何、が?」
「お前だよお前。いつまでたっても教室つかねーじゃん」
何が、と私は聞いたのに、阿部くんが答えたのは何を、の部分だったから、阿部くんの2つのセリフが私の頭のなかでつながるまで、少し時間がかかった。
「っえ……え!?」
つまり、阿部くんいわく、私がのろのろ歩いているせいでなかなか教室に着かないから、阿部くんが、私を、担ぐか背負うかしたほうがいい、と。
私はさっきよりももっと思いっきり首を横に振って、それでも足りずに2、3歩後ずさってみた。
抗議するように右足首が鈍く痛んだけど、それどころではない。
「や、いい、いいよそんなのっ」
「なんで」
「だっ……だって、その、私重たいし!阿部くん疲れるよっ」
そういう問題ももちろんあるけど、それ以前の問題も、もちろんある。
それなのに阿部くんはそのどっちもわかっていないみたいで、ただぎゅっと顔をしかめた。
「……あのなあ」
阿部くんの声が、ぐっと苛立たしそうな色を帯びる。
「俺ってそんな貧弱に見えんのか?」
「……え?」
「お前みたいなちびっこいのひとり担いだくらいで疲れっかよ。
そもそも怪我だって、んな簡単にしてたまるかっつーの」
三橋もお前も俺より自分の心配しろよな、と、ぴしゃりと阿部くんは言った。
私は阿部くんの剣幕に目を白黒させて、とりあえず恐る恐る、気になった単語を挙げてみる。
「三橋くん、も?」
「おー。アイツなんか昨日の試合中、バックホーム躊躇しやがってさー」
俺が吹っ飛ばされると思ったんだとさ、マジ失礼だろ。
阿部くんは、これほど屈辱的なことはない、とでも言いたそうな顔をして空中をにらんでいる。
「そんな弱々しく見えんのかよ、俺は」
腹立たしげに腕を組む阿部くんを見て、私はやっと、阿部くんの機嫌が急激に悪くなった理由を理解した。
そうか、こんなところで怒らせてしまうんだ、と反省もしたけれど、抗弁もしなければと思ってそっと口を開く。
「……ちがうと思うよ」
「あ?」
ぐいと視線が突きつけられて喉がひゅっと絞まるような気がしたけど、がんばってそれをこじ開ける。
これでもクラスメイトから「勇者」と目されているのだから、私は。
「え、あ、えっと、阿部くんのこと、貧弱とか、弱々しいとか、思ってるわけじゃないよ、きっと」
「じゃーどー思ってんだよ」
「え……あ、だから、心配、してるだけだよ」
「だーから。俺が頼りねーから心配すんだろ」
「そ、そうじゃなくて」
「はあ?」
じゃーなに、と問いが重ねられる。
答えはとっくに頭のなかにあったけど、声に出すのはためらわれた。
初めて言ったときから今まで、ずっと言ってない。
だってそんなのバカップルっぽくて恥ずかしいし、それにそんな機会なかったし。
でもさっき阿部くんはすごく「彼氏」らしいことを言ってくれたし、私もがんばるべきなのかもしれない。
「……す」
ひとつ息を吸い込んでから音に出したサ行の摩擦音が、少し震えた。
「好きだから心配するんだと思うよ……っ」
言い終えてから、自分自身の恥ずかしさにめまいがした。
うわ何言ってんの私超恥ずかしい超恥ずかしい超恥ずかしい。
押したあとで自爆スイッチだったことに気づいて、歩くのだってままならない足でその場から逃げ出したくなった。
どうしようどうしようどうしよう阿部くん絶対ひいてる、阿部くんの顔を確かめることができない。
足をひねった直後はすごく痛かったけど別に泣きはしなかった、でも今この瞬間ものすごく泣き出したい気持ちになる。
のに。
「でもアイツ、俺のメールに返信してこねーし」
「 は」
「田島にはフツーに返してるくせにさ。スキっつか嫌われてる気がするんだけど、むしろ」
私にとって本日3度目の、そして最大のぽかんだった。
私は「私と三橋くんが」っていうつもりで言ったんだけど、阿部くんは「三橋くんが」のところしか受け取ってくれなかったらしい。
今の今まで胸を満たしていた羞恥心が、しゅわしゅわと抜けていく音が聞こえる気がした。
なんだか、私が奮い立たせた勇気はぜんぶ空回りしている。
拍子抜けしたあと、なぜか笑いが込み上げてきた。
阿部くんの頭のなかってほんと、野球だらけだ。
その実感は、悲しさというより安心とあきらめに似ている気がする。
ほんのちょっとだけ寂しさが混じってはいるけど、それは大きく空振りをした自分をバカだなあと思う気持ちに隠れてしまう。
わかってくれなくていいと思った。
阿部くんの何気ない一言やちょっとした動作にぐらぐら揺れる私の気持ちなんて、伝わらなくていい。
私の気持ちがぜんぶ伝わり切ってしまったら、きっとそれは阿部くんにとってはとても重くてうっとうしくて邪魔なものになると思う。
だからいい。
阿部くんの、まだ少し険を残した目がこっちを見る。
「なに笑ってんだよ」
「え?う、ううんっ、なんでも」
ないよ、と言っても阿部くんはその言葉をそのまま飲み込んでくれそうになかったので、私は慌てて「次の相手は、まだわかんないんだよね?」と聞いてみた。
きっと野球の話題を出したらそっちに気持ちを向けてくれる。
案の定阿部くんは、「え?ああ、明日の試合の結果待ちだな」と答えてくれた。
私もちょっとは阿部くんとの会話に慣れてきたのかもしれない。
「次は平日なんだよね」
「ああ。でもその次はもー夏休みだし、また見にくれば?」
ほらこんな一言が。
阿部くんにとってはなんてことのない言葉が、私にはとてもとても大事に響く。
うれしくて胸が、いっぱいになる。
「うん、行く」
「昨日は雨だったからそうでもなかったけど、晴れたらスタンドもクソ暑いからな、倒れねえように気ぃつけろよ」
「うん」
こんなふうに、当たり前みたいに阿部くんの応援をさせてもらえるだけでいい。
阿部くんの9割が野球なら、残りの1割のなかに置いてくれればいい、それだけでも私には夢のようなことだから。
「で、担ぐ?背負う?」
「え!?や、だから、それはいいってば……!」
できるだけ一生懸命歩いているのに、どうしても阿部くんに遅れてしまう。
だから私はなるべく早く追いつこうとする。
待ってくれなくていい、受け取ってくれなくていい、担いでも背負ってもくれなくていい、きっと重いから。
だから私は、阿部くんに気づかれないように一生懸命歩く。
隣にいさせてもらうために、一生懸命歩く。
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