Q&Q
朝練のあと、いちばん最後に部室を出ようとした巣山が、「あ、阿部携帯忘れてる」と気づいた。
鍵をかけるため外で待っていた栄口が覗き込むと、なるほど確かに携帯がひとつ、無造作に忘れ去られている。
それが阿部のものであることは、黒いそっけない本体にくっついた、やけに華やかな彩りの「必勝祈願」のお守りから知れる。
「阿部がカノジョからお守りもらってやんの!」と水谷が騒いでいたのはわりと記憶に新しい。
「あーほんとだ」
「どーする?置いとく?」
「また昼には来るし、大丈夫だろーだけど。一応持ってってやっか」
「時間ある?」
巣山が自身の携帯で時刻を確認しながら言った。
1組の教室から7組までの、5クラス分の移動時間を思ったのだろう。
「あー。ホームルーム終わってから持ってくか」
「おう」
はいよ、と渡された電話をやっぱりはいよ、と返事して自然に受け取ってから、はたと「え、俺が?」と巣山の顔を見た。
「だって今持ってくかっつったじゃん」
「……まーいいけど」
しれっと言い放った巣山に肩をすくめて、じゃあ閉めるよーと言って鍵を回した。
ホームルームが終わり、早足で他クラスの前を通り過ぎ7組に到着したら、教室から出てきた女子生徒とばったり顔を合わすことになった。
ほとんど同じタイミングで互いに、あ、という表情になる。
携帯電話を握っていた左手をとっさにずぼんのポケットに突っ込んで、ちわ、とあいさつしてみる。
は栄口の手の動きをさして不自然に思わなかったらしく、「おはよう」とちょっとぎこちなく言葉を返してきた。
高校に入学してから言葉を交わすのは初めてかもしれない。
「ちょうどよかった、阿部呼んでもらっていい?」
「え え?」
のびっくりしたような顔と声が、栄口の予想の範囲からはみ出していたのでこっちのほうがびっくりした。
「え、ごめん、なんかまずかった?」
「へ?え、あ、ううん!」
ごめんね、ちょっと待ってね、と慌てた調子で言ったが教室に戻りかけたとたん、「あれー栄口」と水谷がひょこっと顔を出した。
「おう」
「どしたのー?なんか用事?」
「あ、あーうん、阿部の忘れ物持ってきたんだけど」
「あ、そーなんだ、ちょい待ってー」
水谷はそう言ったかと思うと身を翻して、教室のなかに向かって「あべー!」と周りをはばからぬ声で呼んだ。
その声が飛んでったほうに視線をやると、教室の中ほどの席に突っ伏して眠っているらしい阿部の背中が見えた。
水谷が呼ぶのが聞こえていないのかはたまた聞こえないふりをしているのか、丸まった背中が起き上がる気配はない。
「もー。ちょっと待ってよ」
あべー、と再び呼びながら、水谷は軽やかに教室内に戻っていった。
栄口が求めていた対応はまさにこれだったので、おとなしく教室の外で待つことにした。
何気なく目線を移すと、が罰が悪そうな顔で立っていた。
しょうがなく「おとーと元気ー?」と聞いてみると、がほっとしたように表情を緩めた。
「うん、元気」
「高校どこ受けるかとかもう決めたの?」
「あー……西浦行きたいって言ってるけど。でもあの子、ぜんぜん勉強しないから」
「あーそっかー」
困ったものだ、みたいな笑いを交わす。
そうそう、懐こくて騒がしい弟のほうとは違って、こういう物柔らかなしゃべり方をする子だった、と思い出した。
そのとき「何か用?」と、阿部が不機嫌そうな、けれどそんな自覚はこれっぽっちもなさそうな顔をぬっとばかりに突き出した。
栄口は「お」と思っただけだったけれど、の表情がまたさっきみたいにびくりと硬くなるのを視界の端でとらえた。
やっぱり何か間が悪かったのだろうか、と栄口が考えるうちに、は「あ、じゃ、じゃあ!」と不自然にその場を退場するむねを告げた。
「あ?あー、うん」
阿部と目を合わせもせず、ぴゅいとばかりに行ってしまうさまは、なんだか天敵から逃げていくうさぎか何かを思わせた。
のうしろ姿から阿部のほうへ視線を移すと、こちらは泰然自若としたものでいぶかしそうに「なに」と言っただけだ。
「え、いやー、もしかしてけんか中とかだったりした?」
「誰が?」
「誰がって、阿部とさんが?」
「はあ?」
「え、ちょっと阿部何したのひどい!」
当たり前のような顔をしてその場に残っていた水谷が、早々と非難の声を上げる。
してねーよなんも、と阿部は思いきり顔をしかめた。
「え、じゃーいつもああゆう感じなの?」
「ああいう感じってどういう感じ」
「なんか三橋見てるみたいですごいデジャブだったんだけど」
「はあ?」
どーゆー意味、と阿部が眉間をさらに狭くした。
(疑問形に聞こえない疑問を発するのは阿部のくせだ。)
一方の水谷はけらけら笑った。
「あはははデジャブ!やっぱり?」
「やっぱりって何だよ」
あとデジャブってのも何だ。
低くなった阿部の声に、おおこの感じはまずい、と思い、「いやホラ、さんもまだ緊張すんのかもね」と口を挟んだ。
「緊張?なんで?」
なんでって。
真顔で聞き返され、途端にフォローするのが面倒くさくなった。
これだから図太いヤツはなあ、と思い、それでも一応「カレシだから?」と答えておいた。
栄口にしてみれば、そんなに深く考えて言ったことではなかったのに、
阿部は意外そうにまばたきをして、まじまじと栄口を見据えた。
「お前、あいつと仲良かったっけ?」
「別に仲良くはないけど。弟のことしか話題ないし」
「さっきフツーに話してたじゃん」
「いやだからフツーだって」
阿部の顔は怒っているふうではなかったけれど、どうにも納得しかねているようだった。
「なんで俺だと緊張して、栄口だと緊張しなくてフツーなの?」
そんなことを真顔で聞かれましても
返事に窮した栄口は水谷に視線をやった。
ヘルプを要請されて、水谷はしかたないなあというように笑いながら言った。
「まー阿部は黙ってっと怖いしねー。口開いても怖いけどー」
水谷、それは(本当のことだけど)ぜんぜんフォローじゃない。
「ああ?」
「ほらそーゆートコがさ!」
刃物のような視線を突きつけられて水谷が一歩後ずさる。
争いごとに巻き込まれるのは不本意だし、もうさっさと用件を済ませて帰ろうと思い、「阿部、携帯忘れてたよ」と電話を差し出した。
「あ。なんだ携帯か」
「なんだじゃないでしょー、お守りつきなんだし」
だからこその前では渡しづらくて気をつかっていたというのに。
阿部はほとんどのんきとも言えるような無頓着さで「おー。サンキュ」と礼を言う。
そうして受け取った携帯をやけにしげしげ眺めるので栄口が何かと思っていると、
「電話だとフツーにしゃべんだけどな、あいつ」と独り言のように言った。
「ああ、顔見ないほうが緊張しないのかもね」
「そーゆーもんか?てゆーかだからなんで緊張?」
心底不思議で謎でしょうがないといわんばかりの阿部の顔を見て、コイツどこにそういうことを落っことしてここまできちゃったんだろう、と栄口は思った。
そういうことというのは例えば、好きな人の前で緊張してしまう、みたいな、ごくごく一般的な心理とかだ。
それをここで自分が教えてやるいわれはないだろう。
経験は最大の教師だ。
そう思ったので栄口はただ「それは自分で考えなよ」と言い、やっと7組の教室に背中を向けた。
せめてここで、ヒントだけでも与えておけばよかったのだということを、もちろん栄口は知らない。
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