願いのかけら
突き返されるということはないにしても、いやな顔やあきれた顔をされるんじゃないかと思っていた。
だから帰り道に寄ったコンビニで、阿部くんが買ったパン(小さなホットケーキが2枚入ったやつ)を食べ終えるのを待って、
手にのるほど小さな深緑色の紙袋を渡したときにも勇気を振り絞ったけど、
阿部くんがそれをじっと眺めて「なに、コレ」と言ったとき、答えるのにさらなる勇気が必要だった。
「お……お守り」
阿部くんの表情を見るのが怖かったから視線を地面に落とす。
です、とごまかすように小さく付け足すと、阿部くんが「まーた敬語」と溜め息混じりに指摘した。
「あ、ごめ」
「いーけどさー。つーかコレ開けていい?」
「っあ、う、うん」
阿部くんが右手で袋に封をしていたテープをぴっと剥がして、それを引っくり返す。
かささ、と軽い音がして、中身のお守りがぽとんと阿部くんの左手に落ちた。
うしろから射してくるコンビニの明かりに照らされて、赤い布地に「必勝」という金色の文字が刺繍してあるお守りが浮かび上がる。
「青のほうが阿部くんっぽくない?」と言われて濃い青に白い字のと迷ったけど、赤と金のほうが縁起がよさそうだなと思ってこっちを選んだ。
でもいざ渡してみると、やっぱり青のほうがよかったかも、という今更な後悔(今更じゃない後悔なんてきっとないけど)がじわじわ湧き上がってくる。
阿部くんは手のひらの上のそれを見つめた。
阿部くんは物を見るときとても丁寧な見つめ方をする、と思う。
キャッチャーって相手のバッターとかランナーとかも見てなきゃいけないんだろうし、癖なのかな。
それともそうやって何かを観察するのが好きだからキャッチャーをやってるのかな。
それはさておき、私は阿部くんのそういう丁寧な見つめ方の対象になることに慣れなくて、
だから私が渡したお守りもそんなに凝視しないでほしい、と思ってしまう。
不意に阿部くんの視線がすいと上がって私をとらえる。
私はそのたび息が止まるような緊張を覚えるのだけど、このときも例外じゃなかった。
「買ってきてくれたの?」
「え……う、うん」
「そっか。サンキュな」
阿部くんは私を拍子抜けさせるあっさりさでそう言うと、紐の部分を持って目の高さでお守りを軽く揺らした。
私はそれだけでも十分びっくりしていたけど、
阿部くんの独り言みたいな「どこつけるかな」という声にもっともっとびっくりさせられたから、思わず「えっ」と声を上げてしまった。
寄り目がちになっていた阿部くんの瞳が、私のほうへ流れてくる。
「んだよ」
「え……や、あの……」
持ってて、くれるの?
恐る恐るそう聞くと、阿部くんが「は?」という声と同時にきょとんとする。
「何それ。家に置いといたほうがいーんだっけ?お守りって」
「え、あ、や、違うけど……」
「じゃーなに」
阿部くんの切り返しは早くて口調が鋭い。
それに合わせて急いで答えなきゃと思うけど、実際には私の舌も脳みそもそこまですらすら動かないから、
どうしても「え」とか「あの」とかが挟まってしまう。
すると阿部くんの眉間は、いつもかすかに狭くなる。
「なんだよ」
「っ、あの、阿部くん、お守りとかそういうの、好きじゃないかなって、思って」
「……イヤそりゃ好きってほどでもねーけど。つーかお守り好きなヤツとかいんの?」
「や、えっと、そういうことじゃなくて」
「じゃあどーゆーことだよ」
「あの、だから、あんまり、そういうの、信じないほうなのかなと」
「そういうのって?」
「え……ええと、だから、お守りとか」
「とか?」
「あ……えっと、あと、占いとか、おまじないとか」
私がもぞもぞと挙げると、阿部くんは「あー、そういうことな」と言った。
つまり私は、非科学的っていうかなんていうか、
そういうことは理系の阿部くんからすれば「馬鹿馬鹿しい」って感じることなんじゃないかな、と心配していたのだ。
それが伝わったかな、と思って阿部くんをうかがう。
「そりゃー確かに、こんな袋ひとつで勝てるたぁ思ってねえよ」
阿部くんはそう言ってまたお守りをちょっとゆらゆらさせる。
袋ひとつ、という身も蓋もない言葉に、やっぱりとは思ったものの私はぐさりと傷ついて下を向いた。
けれど阿部くんの声は「でも」と続く。
「お前が応援してくれてんのはホントだろ?」
思わず阿部くんを見上げた。
その拍子に目と目が合って、また私の呼吸は危うくなる。
口を開けたまま声が出なくなった一瞬が阿部くんにはまどろっこしかったみたいで、また眉をひそめられた。
「んだよ。ホントじゃねえの?」
「っちが……ホントだよ!」
こればっかりは、私も勢いよく言い切った。
がんばってる阿部くんが、勝てますように。
西浦の一回戦は去年甲子園に行った桐青で、勝つのは無理って思うのが普通なのかもしれないけど、
あんなにがんばってる阿部くんが、野球部が、勝つのは無理だなんて思うのはいやだから。
勝てますようにって、私は応援するしかできないけど、いっぱいいっぱい応援してる。
勝てますように、勝てますように、勝てますように。
阿部くんが人差し指1本でひょいとぶら下げられる小さなお守りには、そんな歯を食いしばるような私の気持ちがこもってる。
はずだ。
阿部くんは「だろ?」と言って軽く笑った。
「だからありがたくもらっとく」
呼吸困難、だ。
目が合うときとは違って、緊張ではなくて、うれしさで息が詰まりそうになる。
うれしいっていう言葉でも足りないかもしれない。
阿部くんがくれるのは、いつも、感動とか幸福とかそういう大げさな言葉が似つかわしい、胸いっぱいに膨れ上がる気持ちだ。
涙ぐみそうになる目を必死に瞬かせて乾かしていると、「ああ」と阿部くんが何か思いついたような声を上げる。
なんだろうと思って見ると、阿部くんはポケットから携帯を取り出した。
「これ、ストラップのとこにつけれるよな?」
「え、あ、うん」
「エナメルだと汚れそーだし、こっちにすっか」
携帯を見つめながら阿部くんが言う。
携帯につけてくれるんだ。
それならやっぱり青のほうがよかったのかな、と思っていると、阿部くんは右手に持ったお守りと左手の携帯を見比べた。
「なあ、コレどーやってつけんの?」
「え」
「携帯にモノつけたことねーんだよ」
言い訳みたいに言って、阿部くんは「つーかどこにつけんだよ」と言いながら携帯をくるりと引っくり返した。
それが雨傘の使い方を知らないトトロみたいな動作だったからおかしくなる。
こうやって使うのよ、と模範演技を示してあげられることじゃないから、私は「つけようか」と申し出てみた。
「あー。頼む」
阿部くんから携帯とお守りを受け取って、ストラップホールにお守りの紐を通した。
これを通すのはいつも案外手間取るんだけど、今日は一度でうまく通ってほっとする。
私の手元を観察しながら、「あーその穴ってそのためだったのか」と感心したように阿部くんが言った。
「はい」
「ん。サンキュ」
お守りをつけ終わって阿部くんに返した携帯は、さっきまで黒一色で、まるで阿部くん本人のようにとてもそっけなかったのに、
今は赤と金のお守りをぶら下げて、なんだかとてもきらびやかになってしまった。
阿部くんがそれをポケットにしまうのを見届けながら、思い切って「な、なんか」と声に出してみる。
「ん?」
「派手になっちゃったね」
「携帯?」
「う、うん」
「そーか?まあ誰も気にしねーし、いいだろ」
帰るか、という阿部くんの声に促されて、そばに停めた自転車に向かう。
誰も気にしない、かなあ
私はこっそりと思ってみる。
阿部くんの家族の人や野球部の人たちは、不意に現れたお守りに気づかないだろうか。
気づかれて、聞かれたとき、阿部くんなんて答えるんだろう。
そんなことを考える。
それに、ほかの誰も気づかなくても、少なくとも私は気にしなくなんてない。
阿部くんの携帯に寄り添うようにくっついているお守りは、私があげたものなんだ。
なんだか無性にくすぐったい。
「に、日曜日、天気どうかな」
「さあな。今んとこ雨の予報だけど」
「晴れるといいね」
「いやあんま暑いと困る。三橋がバテる」
「あ……じゃ、じゃあ、曇りだと、いいね」
「だな。そんで涼しけりゃ理想的」
難しい注文だから、てるてる坊主にお願いするわけにもいかない。
勝てますようにに加えて、試合の日が阿部くんの理想的な天気になりますようにってお願いまでしたら欲張り過ぎかな。
そんなことを思いながら阿部くんの隣を歩いた。
「あれ、阿部なにそのお守り」
朝練のあと、目ざとく気づいたのは水谷だった。
言われて見てみると、阿部の携帯に昨日までは確かになかったものがついている。
赤字に金色の糸で「必勝」と刺繍してあるお守りだ。
花井も同じようなのを、ちょっと前に母親から押しつけられた。
いらねえと断ったが「おばあちゃんが買ってきてくれたんだよ!」という言葉には逆らえず、部活用のエナメルバッグの内ポケットに忍ばせてある。
「えー。ちょっとちょっと、なんですか、コレはひょっとしてひょっとするとアレですかー?」
水谷が愉快そうな顔になる。
愉快そうな顔とはつまり、いつも垂れてる目じりがさらにひょーんと下がった顔だ。
水谷じゃなくても花井だってぴんときている。
だって昨日は週に1度のミーティングの日で、阿部はだいたいその日は、先月できたばかりの彼女と2人で下校するのだから。
「んだよ。うぜーな朝から」
阿部は携帯を手にしたまま、にこにこしている水谷を見て嫌そうな顔になる。
「あべあべ、そのお守り誰からもらったのー?」
「あー?だけど」
「やっぱりー!」
素気ない、そして予想を裏切らない阿部の返事に水谷の歓声が響いた。
当然、まだ部室に残っていたほかの部員たちの注目を集めることになる。
「なになに?」
「どしたの?」
「阿部がさー、カノジョからお守りもらってんの、必勝の!」
なぜか嬉々として水谷が吹聴すると、部室のなかが「おお」とか「へえ」とかいう声でどよめいた。
そのなかで花井が聞き取れたのは、泉の「うーわベタ」とぼそりとけれど皆に聞こえるつぶやきと、
田島は「え、いーなー!スゲー高校球児っぽーい!」という盛大な感想の発表だ。
「ぽいも何も高校球児だって、正真正銘」
「でもいーよねー、定番だよねー、うらやましー」
「どこが?定番過ぎてハズくね?」
「反抗期だなあ、泉は」
巣山が田島に正攻法のつっこみを入れ、水谷の言葉に泉がさっくりと言い、沖が苦笑する。
「でもそーやって応援してもらえんのってやっぱうれしいよね」
「えっ、栄口も誰かからもらったの、お守り」
「え、ちがうよ、俺じゃなくて阿部のハナシだよ」
「まー阿部はね、今らぶっらぶな時期だしね、そりゃうれしいよ、ねー、阿部」
水谷が笑顔でくるりと振り返る。
自分のことがまな板に上げられているというのに、阿部は素知らぬ顔で着替えを続行していたけれど、水谷の声に「あ?」と反応はした。
「イヤだから!お守り、うれしいよねー?って聞いたのっ」
「ああ。うれしいに決まってんじゃん」
でなきゃ携帯につけたりしねえだろ。
阿部がロッカーの扉を閉めるがちゃんという音が部室内に響き渡ったのは、阿部の発言に全員声を失ったからだ。
阿部は荷物を持つと、「先行くぞー」という言葉を残してさっさと部室を出て行った。
ぱたんというドアが閉まる音が消えると、「えええええっ」という田島の叫びが静寂を破る。
「なにアレ!阿部がカッコいい!」
「っあ、あべくんは、カッコいいっ」
「な、なんか……阿部って阿部だよね」
「うん、なんかもう、ニチジョーサハンジだよね、花井」
「俺にゆーな」
田島と三橋がはしゃぎ、阿部のあの手の発言に免疫のない西広に、水谷はフォローを入れたつもりだったのだろう。
花井にとってはなんのフォローでもない。
もう慣れっこだよね、と言わんばかりの口調はやめてくれないかと思う。
「……わり、俺訂正するわ」
黙りこくっていた泉がぽつりと口を切る。
田島と三橋以外の全員が賛同した、泉の言葉が総括になった。
「誰よりいちばんアイツがハズい」
(そんな阿部くんが、好き!)
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