目指せ甲子園
「ただーいまぁ」
腹減ったー、と言いながらリビングに入ってきたのは、つい最近高校生になったばかりの一人息子だ。
対面式のキッチン越しに、母は「おかえりー」と声をかける。
「今日メシなにー?」
息子が、荷物を下ろしてカウンターにほおづえをつく。
母の身長を追い越してからもうずいぶん経つというのに、
そのしぐさと期待に満ちた目は小さいころと変わりなくて母は思わず笑ってしまう。
「今日はえびフライー」
「やった」
お気に入りのメニューを聞いて、息子はふにゃりと笑う。
文貴ってほんっと緊張感ないよねー、と、ときどき上の娘と言い合う笑顔だ。
「あ、そーだ文貴、部活見学どうだったの? って、すぐ夕ご飯よ?」
「だいじょーぶ、ちゃんと食うよー」
息子はキッチン側に回り、ごそごそと冷蔵庫を探りながら答える。
そしてぱっと表情を輝かせたかと思うと扉を閉めた。
「やった、シュークリーム発見!」
「もー。デザートにすればいいのにー」
「だって腹減ってんだもん。いっただきます!」
袋を破き、シュークリームにかぶりつく。
甘いもの好きの息子の表情があまりにも幸せそうなので、母の小言はついと消えてしまった。
「ね、どーだったの、部活」
「んんー」
母は付け合わせのスパゲティーのサラダをあえながら、もう一度聞いた。
今朝、朝食のときに「今日は部活の見学に行ってくるから」と息子が言っていたのを思い出したのだ。
息子はしばらく口をもごもごさせてからシュークリームを呑み込み、「俺やっぱ野球にするわ」と言った。
「あらそー」
「うん。なんかね、スゲおもしろそ」
「一年生だけなんでしょ?何人くらい入りそうなの?」
「んー。今日いたのは9人?かな?」
「へえ。じゃー文貴もレギュラーなれるねー」
母は野球のことはよく知らない。
だから、息子の中学時代に数回試合を観に行ったことはあるけれど、息子の野球の腕前のほども、よくわかっているわけではない。
でも野球の話をする彼の顔はとても楽しそうだったし、
我が息子ながらそう根性があるわけではない彼が、3年間とにもかくにも続けたことだから、
野球とは、うまいへたは別として、息子の大好きなものとしてインプットされている。
「んー。でも甲子園目指すんだぜ」
「……こうしえん?」
息子の言葉に、母は菜箸を持った手を止めた。
甲子園。
日本の夏の風物詩。
緑色の球場に満員のスタンド。にぎやかな応援団。
日に焼けた白いユニホーム姿の少年たち。
夏休みになると毎年テレビや新聞をしきりに騒がせている、あれのことだろうか。
母は、まじまじと自分の息子を見つめてみた。
ふわふわと柔らかい茶色がかった髪をして、
「ねー高校行ったらピアス空けていー?」とねだって、
父親に雷を落とされなければきっと実行していただろう(母もさすがにピアスには反対だった)、
彼女の息子である。
「文貴がぁ?甲子園?」
「そー。スゴイよね」
指先についたクリームをなめながら、息子は他人事のように言う。
「行けるの?」
「ねえ。フツー無理とか思うじゃん」
ムメーの公立だし。
一年ばっかだし。
グラウンドだって草ぼうぼうだし、照明もないし。
「で、監督が……」
何か言いかけて、息子は口をつぐむ。
なんだか恐ろしいものを思い出したような顔をして。
「なに?監督さんがどうしたの?」
「んー。オンナなの」
「へえー!」
野球の知識がない母にも、女性の監督という存在の珍しさはなんとなく理解できた。
野球の監督と聞いてイメージするのは、ベンチのなかで腕を組み、難しい顔をしている男性だ。
息子の中学のときの部活の顧問も、男性教師だったし。
それにしては、さっき言いよどんだときの息子の表情はどういう意味だろう。
「でもスゲ怖い。甘夏素手で握りつぶすし、ケツバットするし。マジ怖い」
「……へえー」
いったいどんな人なんだろう。
プロレスラーのような女傑が母の頭をかすめたが、とりあえずそれは置いておく。
「で、その監督さんが言ったの?甲子園目指すって」
「んー。監督もその気みたいだけど。先に言ったのはキャッチャー」
「キャッチャー?」
「うん。スゴイのそいつ。
ピッチャーのやつが一人いたんだけどさ、そいつは中学群馬でさ、
じーちゃんの学校だったからヒイキでエースやってて、ぜんぜんダメだったんだって」
「え?その子がキャッチャー?」
「え、ちがうよピッチャー」
混乱した母が聞くと、息子は心外そうな顔をして間違いを正した。
「えー?キャッチャーの子の話してたんじゃないのー?」
「だから話してんじゃん!
で、キャッチャーのやつがピッチャーのやつにちょっと投げさせてさ。
中学で4番打ってたでっけーやつと三打席勝負したんだけど、そいつぜんぜん打てなかったんだよ。
なんかね、そのピッチャーのやつ、ストライクゾーン9分割でしかもストレートじゃないストレート投げれるんだって」
「ふーん」
登場人物がいまいち把握できていないし、ストライクゾーンとかストレートとか言われても正直よくわからないのだが。
母はとりあえずあいづちをうって、鍋に張った油の温度が上がるのを待つ。
話しぶりからすると、もう少し聞いていればキャッチャーの話題に戻るはずだと予想をつけて。
この子、高校の国語についていけるのかしら、という不安がちらりと胸をよぎったけど、今は触れないでおく。
「で、そのキャッチャーのやつがね、お前はミリョクテキな投手だ、とかマガオで言い出してさ。甲子園に行けるって言い切んだよね」
「へえー」
「おっれドキっとしちゃったよー。そんな恥ずかしーこと真剣に言うんだもん」
ちょっとかっけーとか思っちゃった。
そう言って、照れたようにふにゃりと、息子は笑った。
親馬鹿だと言われるかもしれないが、母はこの息子のことを大変にいい子だと思っている。
そりゃあ、学校の成績はあまりよくないし、野球の試合でも大活躍をするような子ではない。
だらしないところもあるし、もうちょっとしっかりしてほしい、と思わないこともない。
それでも素直で気の優しい子に育ってくれたと思う。
この息子の、変にひねくれたり卑屈になったりせず、
他人のいいところをきちんといいと思えるところを、母はこっそり、とても自慢に思っているのだ。
男前ではないけど愛嬌があってかわいいとひそかに思っている息子の笑顔につられて、母の頬も思わず緩む。
「そー。じゃ、文貴もがんばらなきゃだねぇ」
「うん。あ、明日っから練習あるから。帰り遅くなるよー」
「はぁい」
「腹減るから、弁当多めにしてよ?」
「はいはーい」
目指せ甲子園、だもんね。
そうつぶやいてえびフライを油の中へすべりこませながら、じゃあ文貴も坊主にするのかな、と母はふと思った。
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