あの子の話
「ただいまー」
いつもどおりのあいさつを、けれど母は「あれ」と思って聞いた。
時刻は午後10時に5分ほど足りない。
甲子園を目指す息子は、毎日このくらいの時間にへとへとになって帰宅する。
「おかえりー。お疲れさん」
「んー」
息子の疲れた顔はいつもと変わらないように見える。
気のせいかな、と母が思ったとき、彼はもぞもぞとリュックをあさり、なかから弁当箱の包みを取り出した。
あれ、と、再び母は思う。
いつもは真っ先に食卓についてすごい勢いでごはんをかき込んで、
二、三度注意するまでリュックに入れっぱなしにしておくのに。
珍しいなと思って見ていると、息子が自分で深緑のチェック模様の包みをほどき、
弁当箱を開くとそれをシンクまで持っていって水道のカランを下げたので、母はぎょっとした。
「文貴?どーしたの?」
「え、なに?」
「何してるの?」
「え。弁当箱、水につけてる」
「……そりゃあそうだけど……」
高校生になって、お昼にお弁当を作って持たせるようになってから今まで、息子がこんな気の利いたことをしたためしなんてないのに。
母が困惑していると、息子は水を止めて「かーさん」と言った。
母は思わず背筋を伸ばした。
なんでこんな改まった気持ちになるんだろう、と考えてみると、久しぶりに「母さん」と呼ばれたからだ、と思い当たる。
いつごろからだったかは覚えていないが、面と向かって呼ぶのは照れくさくなったのか、しばらく彼からそう呼びかけられたことがなかったのだ。
「なぁに?」
「……弁当、さんきゅ」
今日もおいしかった。
ぼそぼそと付け加える。
母は口をあんぐりと開けて息子を見つめた。
「文貴 ?」
「俺、先風呂入んねっ」
早口にそう言うと、息子はさっさとリビングを出て行った。
母は呆然としてそれを見送った。
あの子はいったい、どうしたというのだろう。
「何かあったのかな……」
思わず声に出してつぶやく。
「ただいま」の声に、いつもよりも元気がないような気がしたから、おかしいと思っていたのだけれど。
母が20分もやきもきしながら待っていると、頭からタオルをかぶった息子が、ほかほかと湯気を立てながら風呂から上がってきた。
「上がったよー」
「あーはいはい。ごはんね、ごはん」
今温めるね、と母が立ち上がろうとすると、息子が「いーよ」と言う。
「え?」
「レンジであっためればいーんでしょ。自分でやるよ」
冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出しながら、息子は言った。
二度目の衝撃だった。
まばたきをして息子を眺めてから、母は恐る恐る声をかけてみた。
「……ねー。文貴?」
「なにー」
宣言どおり自分で鮭のムニエルを温めて、茶碗にごはんを大盛りにしながら、息子は母の呼びかけに答えた。
「ねえ。何かあった?」
「へ?」
「だって……今日おかしいよ?文貴」
「……そう?別にフツーじゃん?」
かたん、と音を立てて食卓につくと、息子はいつものように「うまそう!いただきます!」をやった。
集中力を上げるためらしいこのあいさつを、息子は朝も夜も(聞くところによると昼も)食事前に欠かさないのだが、
今度は野球部で親を大事にするという課題でも出されたのだろうか、と母はいぶかしんだ。
母は軽快なペースで箸を進める息子をじーっと見つめた。
見たところ、食欲に異常はないようだけれど。
でも今日の息子の様子はおかしい。
絶対におかしい。
朝はいつもどおりだったから、学校で何かあったに違いない。
母がそんな確信を深めているうちに、息子はおかずとごはんをすべて食べ終わった。
ふう、と満足そうに息をつく。
「あ、ごはんおかわりする?」
「いーよ、自分でするって」
そう言うと息子は立ち上がり、炊飯器に向かった。
母はいよいよぞっとした。
「ねえ!文貴」
「なに?」
「ねえ、何かあったんでしょ?なんで今日はそんなになんでも自分でやるの?」
心配になるでしょ、と母が言うと、息子は「え」と声を上げた。
こっちを向いた目がびっくりしている。
「うそ。心配?」
「うん」
「なんで?」
「なんでって当たり前でしょー!
いつもはお箸一膳自分で出しもしない子が、急にそんなことし出したら誰だって心配するよ」
「え、それ安心しない?助からない?」
「そりゃ助かるけど……。でもいきなりどうしたのかなって心配のほうが大きいよ?」
「えー……?」
母の態度が予想外だったらしく、息子が「どうしよう」という表情を浮かべた。
それを見て母は少しだけ安堵した。
よかった、いつもの文貴に戻ったかも。
「ねえ。なんで急にそんないい子になろうと思ったの?」
「なんでって……えー」
二膳目の茶碗(やっぱり大盛り)を持って息子が食卓に戻る。
お気に入りのふりかけを手に、彼はしばらくためらってから小さな声で言った。
「……別に、たいした理由じゃないんだけどさ」
「なに?」
「俺、ちょっとかーさんに甘え過ぎかも、とか、思ってさぁ」
息子はもう一度「うまそう!いただきます!」と手を合わせて、ふりかけごはんをかき込みはじめた。
母は唖然としてそれを眺める。
「なにそれ。どういう風の吹き回しなのー?」
「んー……ひゃへっへゆふはぁ」
食べながらしゃべる息子は、「風っていうかぁ」と言っているらしい。
ごくん、と口の中のものを飲み下すと、息子は食べるのもしゃべるのも、少しの間やめる。
沈黙のあと、ひそめた声でぽそりと言った。
「 栄口んちさ、お母さん、いないんだって」
「栄口くんって……えーと、副キャプテンの子?だっけ?」
母が記憶に検索をかけて確認すると、息子はこくんとうなずいた。
「……俺、知らなくてさぁ。
今日部活んとき家族の話になって、はじめは花井とか阿部とかと話してたんだけど、俺栄口に聞いちゃったんだよね。
栄口は親と仲いーの?って」
ふー、と、胸のなかの鬱屈を吐き出すような溜め息をつきながら息子は言う。
「したら栄口、うちは家族みんな仲いーよって、笑うからさ。
俺はそんときふーんって思っただけだったんだけど、花井は知ってたみたいなんだよね。
あとから怒られた」
マジ無神経なこと言っちゃった。
そう言ったあと、息子はうつむけていた顔を上げた。
「ねえ。俺どーしたらいいと思う?」
「どうって?」
「だって栄口から直接聞いたわけじゃねーから謝れねーし。
しかも謝ったら謝ったでおかしくない?なんか同情してるみたく思われるかも。
てゆーか俺同情してんのかな?同情って、なんか、しちゃいけないんでしょ、一般的に」
「ええ……?うーん、しちゃいけないとは思わないけど……」
でも同情されるのを喜ばない人はいるよね、という母の答えを聞いて、息子は「……だよねえ」とつぶやいた。
ひどくしょぼくれた顔つきをして。
「じゃあ俺ってやなヤツなのかな。だって、家にかーさんいないとか、ふつうにやだと思っちゃうんだけど」
ねーどう思う?
そう言った息子の不安そうな顔を見つめて、ああそっか、と、母は思う。
この子は、栄口くんのお母さんのことを聞いて、すごくショックを受けたのだ。
幸いにして息子はまだ、近しい人の死を経験したことがないから。
それを当たり前のこととして受け入れている人が、同い年の友達に、大切な大好きな野球部の仲間に、いたことがショックで驚いたのだろう。
頭も心も容量があまり大きくないのに、気の優しい彼のことだ。
きっと学校から帰ってくるまでの道のり、ずっとこのことを考えていたのだろう。
うちに母さんがいなかったらどうなるんだろう。
そんなことも、考えてしまったのだろう。
栄口くんはお母さんがいなくて寂しくないのかな、とか、思ってしまったのだろう。
お母さんのいない栄口くんの家のことを、それはもう、余計なほどに生々しく具体的に
毎日ごはんどうしてるんだろう、とか、洗濯も自分でしてんのかな、とか、想像してしまったのだろう。
そして悲しくなってしまったのだろう、きっと。
栄口くんの気持ちを思って。
自分の軽はずみな質問が栄口くんを傷つけてしまったかもしれないと思って、悲しくなってしまったのだろう。
彼女の息子はそういう子だから。
「なーに言ってんの」
母は泣き出しそうな顔をしている息子に向かって、明るく言った。
そうしないとつられて泣き出してしまいそうだったから。
「文貴はやなやつなんかじゃないよ」
母を見上げている息子を見ながら、ああもうなんて情けない顔、と思う。
なんて情けなくて頼りなくて、なんてかわいい子。
「ほんとにやなやつなら、そんなに悩んだりしないんだから」
「……そーかな」
「そーよう。傷つけたかもって思うなら、次から気をつければいいと思うよ?」
「……うん」
うなずいた息子の横顔が少しだけ明るくなった気がして、母はほっとする。
「でもそっか、そんなふうにがんばってる子もいるんだよね」
「うん、栄口はすげぇよ。別におかーさんいないからってわけじゃなくて、ほんとにすげぇんだ」
息子がぱっと顔を上げた。
「守備うめーしバントとかマジ職人技だし、マジメだけど明るいし話してておもしれぇし、古典得意だし。
マジいーやつなんだよ!」
「そっか」
息子が声高に栄口くんの「すげぇ」点を数え上げるの聞いて、母は思わず笑顔になる。
栄口くんは「マジいーやつ」。
心のなかで復唱して、母は栄口くんのデータにそう付け足した。
母がうなずくのを見ると息子はそれはそれは満足そうに笑って、残りのふりかけごはんを5秒で食べてしまった。
「ごちそーさま!うまかった!」
「はい、おそまつさまでした」
がた、と立ち上がると、息子は食べ終わった食器をシンクへ運んだ。
「文貴、置いときなさいよ。お母さん洗うから」
「え……俺やるよ?」
「バカ言わないでよー。文貴に洗わせたりしたらお皿割られちゃうもの」
「えー?そーゆー理由かよぉ」
「ほらほら、さっさと宿題して寝なさい。明日も早いんでしょ」
「ふぁーい」
ばつの悪そうな顔をして、息子は渋々のようにキッチンを離れた。
やれやれ。
肩を落とし、母は袖をまくってスポンジを取り上げる。
「かーさん」
顔を上げる。
カウンターの向こうに立った息子が呼んだのだった。
ちょっと緊張してしまうのを感じて、ほんとに久しぶりなんだなあこの呼び方、と改めて思う。
「なあに?」
「……ホント、うまかったから、メシ」
母がきょとんとすると、息子は決まり悪そうに「うー」と濡れた頭をかいて、そして言った。
「いつもアリガト!お休み!」
真っ赤になって言い捨てると、息子はダッシュでリビングを退場した。
ぽかんと口を空けるのは、今日、これで何度目だろう。
「……やだもう、あの子ってば」
取り残された母はそうつぶやいた。
洗剤の泡がついた手では、赤くなる顔をおおうことも、浮かんできた涙を払うこともできないのに。
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