学級写真





「たっだいま!」

玄関からはずむような声が聞こえる。
何かいいことあったのかな、と思いながら、母は「おかえりー」と返事をした。



「ねーねー見て!」
「なーにー?」

リビングに入ってきた息子は、通学用のリュックをかき回して何かを取り出すと、母のほうに突き出した。

「あ、学級写真?」
「そ!」

母に半透明の袋に入ったB6サイズの写真を渡すと、息子は「腹減ったーメシなにー?」と言いながら食卓に着いた。

「あーはいはい、ちょっと待って」

母は学級写真をひとまず置いておくことにして、息子の夕食の準備に取りかかった。



目指せ甲子園。
部活見学の日に息子が持って帰ってきた目標は、伊達ではなかった。

ゴールデンウイークは合宿で、休みが明けてからは息子の生活はさらに部活中心のものになった。
毎日練習があるし、帰りは早くても9時を過ぎる。
休日も練習だ練習試合だといっては朝早くから出て行ってへとへとになって帰ってくるし、 母は内心、そのうち音を上げるのでは、と心配したりしていた。

けれど母のひそかな不安とは裏腹に、息子はたいした愚痴も文句も言わずに、毎日機嫌よく学校へ行き、週末にも機嫌よく部活へ出て行く。

      がんばってるなあ

そんなふうに母はこっそり息子を見直し、えらいじゃん、とさえ思うのだった。
毎日の、底なしなんじゃないかと思うほどの食欲を満たすための食事の準備と、泥だらけの洗濯物を考慮に入れても。



「うまそう!いただきまーす!」
「はい、どうぞー」

合宿明けから、息子の食前のあいさつはこんなふうに変わった。
部の顧問の先生の指令らしい。
集中力を高めるための訓練ということだ。
さらに食事中も頻繁に「うめー!」を連発する。
以前からものを食べているときにはそれはうれしそうな顔をする子だったけど、最近は輪をかけて幸せそうな表情を浮かべる。

今日も、もともとあまり締まりのない顔をゆるゆるにしてピーマンの肉詰めをほおばっている。
母はグラスに麦茶を注いでやってから、さっき渡された学級写真を眺めることにした。



「やっぱり私服だとカラフルだねぇ」

写真のなかの高校生たちのうち、半分くらいは制服らしきものを着ているが、 残りは休日のどこやらかしで見かけるような、思い思いの格好をしている。
息子の通う高校は公立にしては珍しい私服校なのだ。
紺色のブレザー一色だった中学時代の学級写真とは、色彩がぜんぜんちがう。

「えーと……あ、いた。やだ文貴、また笑ってるじゃなーい」
「オットコマエに写ってるっしょ」
「そーかなぁ」

写真の左上のあたり、小柄な女子生徒の右隣に、息子はいた。
やや緊張しているのか表情に乏しい顔が並ぶなか、息子のやんわりした笑顔はひどく目立つ気がした。

この子はいつもそうなのだ。
カメラを向けると自然と笑顔になる。
にへーっと、うれしそうな。
そのおかげで七五三のときもちっとも苦労しなかったし、アルバムに貼ってある写真の息子はたいてい笑っている。
(中学の卒業アルバムの個人写真も満面の笑みで、上の娘と「文貴笑いすぎ!」と2人して大笑いした。)

確かに顔の造りは悪くない(と思っている)し、写真写りもいいのだけれど。
うーん、と、母は首をひねった。

「男前とはちがうと思うなぁ」
「なにソレひどっ!」
「やっぱり目元のせいかなぁ。こう、もうちょっとしゃきっとした顔すればいーのに」
「それは俺のせーじゃないじゃん!生まれつきだもん」
「お母さんのせいでもないよー?文貴のたれ目はお父さんゆずりなんだから」
「……そんなにたれてんのかなぁ、俺の目ー」

息子はもごもごと口を動かしながら、左手の指で自分の目の周りの皮膚を引っ張って、上げたり下げたりした。

小さい頃よく遊んだ、わらべ歌を思い出す。
上がり目、下がり目、ぐるっと回ってねーこの目。
息子は母の顔を見てはきゃっきゃと笑って喜んで、自分も真似をして見せたっけ。



「あ、ねえねえ、この子が花井くん?」

母は、女子生徒を挟んで息子の左に立つ、背の高い少年に気づいてたずねた。

「え、当たり。よくわかんね」
「だって文貴言ってたじゃない、背が高くて丸坊主って」
「あーそっか」
「これが花井くんかぁ。高校球児!って感じだねぇ」
「ねぇ。でもって主将!って感じっしょー?」
「うんうん。しっかりしてそうー」
「しっかりしてるよー、うちの部長は」

息子の野球部のキャプテンだという少年は、口をぐっと引き結び、まっすぐに背筋を伸ばしている。
このきりっとした表情の少年と比べると、彼女の息子の顔はますますリラックスし過ぎているように見えた。

「野球部の子って……えーと、あと1人いるんだよね?」
「マネージャー入れてあと2人。阿部としのーか。えっとねぇ、阿部はここ      
「あ、待って待って!当てるから!」

息子が行儀悪く伸ばした箸を、母は慌てて制止した。

「えーと……阿部くんってキャッチャーの子だっけ?」
「うん。あ、でも阿部細ぇよ?背も俺のが高いし。孝太郎とかとはちがうよ?」
「あ、そうなんだぁ」

息子に注意され、昔アニメでやっていた野球漫画に登場するキャッチャーのような、大柄な少年を探してしまっていた母は、その方針を取りやめた。

「じゃあ、えー……この子?」

母が指差したのは、クラスで花井くんのほかにもう1人いた、顔の小さな坊主頭の少年だ。

「ちっがうよ。それは山瀬」
「坊主頭なのに野球部じゃないんだ」
「山瀬はバスケ部。入学式んときは髪あったんだけどさぁ、バスケ部一年全員でいっしょに坊主にしたんだって」

気合い入ってるよねぇ、と、男の子としては比較的長めの髪を維持している、野球部所属の息子はのんきに言った。

「えー……じゃあ、この子?」

野球部なんだし色黒の子だろうと思って、いちばん前の列で椅子に座っている浅黒い肌の少年を指差してみた。

「はずれー。それは荒川。そいつは陸部ー」
「あ、それで日に焼けてるんだぁ」
「うんでもそれ地黒じゃね?まだ5月だしー」
「うーん……ねぇ、なんかヒントない?阿部くん」
「ヒントー?」

息子は麦茶をぐっと一口飲み込む間少し考え、「阿部はねぇ」と言った。

「たれ目だけど目つき悪い」
「そうなの?」
「うん。でも口も悪い。すぐ怒る。冷たいしー」

不満そうな口調でそんなことを言いながら、でも、息子の顔はにこにこ笑っている。

「……文貴は阿部くんのこと苦手なの?」
「え、まっさかー!」

阿部はすごいやつだよ、と、息子は驚いたように言った。

「すげー野球好きだし。試合のときとかちょー頼りんなるし。
だってさ、中学のときダメダメだった三橋がこれまで全勝なんだぜ!
もちろん三橋もがんばってんだけどさ、やっぱ阿部のチカラだよ。すげ過ぎるよ」
「そうなんだぁ」
「なんかね、スゲかっこいーんだよねぇ」
「あ、かっこいいの、阿部くん」
「うん、顔がっていうかー、なんだろ、イキザマが?」
「いきざまぁ?」

大げさな息子の言葉に、母は思わず笑ってしまった。
なんだよぉ、と息子はむっとしたように言う。

「だって文貴、生きざまの意味わかってるのー?」
「わかってんよそのくらい!てゆーかマジかっこいんだってば阿部は」
「はいはい。えーと、じゃあ……」

母は視線を写真に戻した。

ええと、阿部くんは、たれ目だけど目つきが悪くて、口も悪くて、すぐ怒る。
でも、生きざまがかっこいい子。



      難しいなぁ
写真とにらめっこする母に、息子が思い出したように助言する。

「あ、でも野球離れるとフツーだよ。てゆーか無気力。しかも無愛想。そんで無口」
「そうなの?うーん……      あ」

母の目にとまったのは、さっきの荒川くんの左隣に座っている少年だ。
下がり気味の目じりと、利かん気の強そうな弓なりの眉。
姿勢よく座ってはいるが、どこか億劫そうな、無関心そうな表情をしている。

「ひょっとしてこの子?」

母の指先を確認して、息子がうれしそうに笑った。

「あったりー!」
「やっと当たったー。そっかぁ、これが阿部くんかぁ」
「そ。うちのこわーいキャッチャー。んで副キャプテン」
「ふぅん」

      見てみたいな

指の爪ほどの大きさの、阿部くんの顔を見ながら母は思った。
「ちょー頼りになって」、「マジかっこいい」という野球をしている阿部くんを。
その阿部くんや、花井くんといっしょに野球をしている息子を、見てみたいなと母は思った。



「あ、ねえじゃあマネージャーの子は?」
「言っていーの?」
「うん、いーよ」
「しのーかはねぇ、これ」

息子が指差した、柔らかそうな髪をした少女は、副担任の左上でにこりと笑っていた。

「わ、かわいー」
「でしょー」

母が感嘆すると、息子は自慢げにうなずいた。

「いーねぇ、こんなかわいい子に応援されたらがんばっちゃうよねぇ」
「しのーかはかわいいだけじゃないよ。野球好きだし。中学んときソフト部だったんだって。
それに働き者だし気ぃ利くし優しーし。スゲいい子」
「……へーえ?」

母がじいっと見つめてみると、息子はその視線に気づいて「なに」ときょとんとする。

「んー?文貴はしのーかさんが好きなのかなーと思って」
「ちっげーよ」

母がにこにこしながら言うと、珍しく息子は眉間にしわなんて作って反論した。

「ほんとー?それにしてはやけにほめるじゃない?」
「だってほんとのことだもん。いいマネジなんだよ、しのーかは。
それにしのーかだってチームメイトなんだから。スキで当たり前なの。そーゆー言い方やめてよ」

きっぱりと言い切ると、息子は「ごちそーさま!うまかった!」と手を合わせた。
そうするとさっさと立ち上がって食卓を離れてしまう。
しまった、ちょっとからかいすぎただろうか。

「あー文貴ごめん。怒った?」
「べっつに怒ってないけどー」
「ごめんごめん、わかった、しのーかさんはとってもいいマネージャーで、チームメイト」

これでいいかなとばかりに母がうかがうと、息子は少し表情を緩めて「わかればヨロシイ」と高飛車に言った。

「俺風呂行くよー?」
「はいはいどーぞ」

リビングを出て行く息子を見送りながら、母は苦笑いをこぼした。
息子がしのーかさんへの恋心を全否定してくれて、ほんのちょっとだけ安心したことは内緒だ。



さて、片付けてしまおう。
そう思って食卓に向き直ると、そのままにしておいた学級写真が目に入ってきた。

汚さないように袋に戻そうとして手に取り、もう一度ゆっくり眺める。

花井くんに、阿部くんに、しのーかさん。
野球部員の3人の顔をもう一度見つめる。

同じクラスだけあって、花井くんと阿部くんの名前は最近の息子の話に頻繁に登場した。
ほかにも野球部員の子の名前はよく出る。

全員覚えたいなと母は思う。
全員覚えて、いつか全員と会ってみたいと思う。

毎日の練習がどんなに厳しくても休日がなくても、
息子が部活をがんばれているのは、彼らのおかげでもあると母はにらんでいるのだ。
野球部の話をする息子の顔は、どれだけ疲れていても、いつもとても楽しそうでうれしそうで自慢げだから。

息子といっしょに甲子園を目指している「スキで当たり前」のチームメイトたちに会ってみたい。
「観に来たってルールわかんないじゃん」と息子には言われたけれど、夏に始まる大会は応援しに行くつもりでいる。

      それまでに野球のルール覚えよう
母は心楽しく決心して、学級写真をしまった。