勝利の夜に
「ただいまぁ」
ゴールデンウイークも残すところあと一日となった日の夜。
休み中ずっと部活の合宿に行っていた息子が帰ってきた。
さすがに疲れたのか、いつもより少し元気のない声でのあいさつに、母はいつもどおり「おかえりー」と答えた。
「ちっかれたぁ」
よろよろとリビングに入ってくるなりそう言い放つと、肩からさげていたバッグをどさっと床に置く。
そして息子はそのままソファにダイブした。
「お疲れさま。洗濯物出しときなさいよー」
「うーん」
やっぱ家はいーなぁ。
はー、と幸せそうな吐息をつきながら、息子はごろりと寝返りをうつ。
母の指示が彼の脳みそに届いていないことは明白だったが、あんまりしみじみとした声音に思わず笑った。
「なーに。たった5日でホームシック?」
「そーじゃないけど。やっぱくつろぐー」
そう言って息子は巨大な猫みたいに丸くなる。
母はくすりと笑うと、リモコンを取ってテレビの音量を下げた。
「どうだった?楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
山菜採ったり、枕投げしたり。
息子は楽しかった出来事を思い出したらしくにへらと笑った。
「野球もしたんでしょー?」
「あったりまえじゃん。そのための合宿なんだからー。練習試合もしたし!」
「あ、群馬まで行ったんだっけ。どうだったの?」
「勝ったよ。西浦野球部初勝利!」
ソファに仰向けに寝転んだまま、息子は拳を宙に突き出した。
「へー!すごいじゃなーい」
「うん。勝ってエース手に入れたんだぜ」
ガッツポーズをそのままに、息子はなんだかとてもうれしげに笑う。
「エース?」
「うん。三橋はえらかったよ、よく投げたよ」
「ミハシ、くん?がエースなの?」
息子は学校での出来事を話すとき、こんなふうに突然固有名詞を出す。
今日ヨウスケがさー、とか、明日は前田と遊んでくるかんね、とか。
その人物を、母が知ろうと知るまいとおかまいなしに。
でもそうやって話を聞いているうちに、登場回数の多い子は自然と覚える。
だから実際会ったことはなくても、息子の友人の名前はわりとよく知っているほうだと思う。
「うん。あ、エースってピッチャーね。背番号1」
野球をよく知らない母を気づかってか、息子がそんな説明を加える。
「ふぅん」
「だって今日の相手って三橋の元チームメイトだったんだぜ?
そいつら、三橋が中学んときヒイキでエースやってたの今だに恨んでるらしくってさ、こっちのことすっげー見てくんだけど、その視線がマジ怖ぇの」
「……ああ。ミハシくんが前言ってた投手の子なのね」
母は記憶を探って、数週間前の息子との会話を思い出した。
だからそー言ってんじゃん、と、話の腰を折られた息子がちょっと不満そうな顔をする。
「ごめんごめん。それで?」
「えーとなんだっけ、どこまで話した?」
「ミハシくんのチームメイトの視線が怖くて、それで?」
「あーそうそう。それで、でも三橋はよくがんばったんだよってハナシ」
すっきりと簡潔に、息子は結論を出した。
「俺だったらぜってーやだもん。あんなにらまれてて投げらんねぇよ。
それに今日は先制点はウチが入れてリードしてたんだけどさ、途中逆転されちゃって。
ホームランまで打たれて、後ろで見ててもすげー落ち込んじゃってさ。
最後まで投げらんないのかと思ったけど、それでも投げ切ったもん」
三橋はえらいよ、よくがんばったよ。
自分の言葉に自分で感じ入っているのか、少し神妙に息子はつぶやいた。
――そっか、ミハシくんはピッチャーで、えらい子なんだ
頭のなかの文貴のお友達データに、母はそう書き込んだ。
息子の口ぶりからすると、それはとても重要事項のようなので、忘れないようにしっかりと心に収めた。
「あ、そうだ。冷蔵庫のなか、プリンあるよ」
「やった!プリン!」
好物の名前に反応して、息子はソファから飛び起きた。
「食べてもいいけど、先に洗濯物出してお風呂入ってきなさい」
「えー」
「そのほうがあと楽でしょー。ほら、早く」
「はーい」
きらきら輝いていた息子の顔が不満そうにしょんぼりする。
のそりと立ち上がり、重そうにバッグを持ち上げた。
「あ、ねえ、文貴はどうだったの?活躍したー?」
母が思いついて問いかけると、リビングを退場しかけていた息子が立ち止まった。
「ええー……」
言いよどんでいるが、わかりやすい子だ。
顔に浮かんでいた疲れが濃くなった。
「なぁに。なんか失敗しちゃったの?」
「……エラーしちった」
「エラー?」
「失敗のこと」
「……あらー」
息子の周りの空気がどんより重くなるのを感じて、かわいそうなこと聞いちゃったかな、と母は少し反省した。
彼女の息子は楽天的な性格だけど気が小さいのだ。
「怒られた?」
恐る恐る聞いてみると、意に反して息子は首を横に振った。
「あ、なんだ、じゃーよかったね」
「よくねぇよぉー。そっから逆転されたんだぜ?それで三橋落ち込むし」
ちょー責任感じた、負けたらどーしよかと思った!
そう言って、息子はそのときの恐怖を思い出したのか、ぶるりと身震いした。
「あらー。じゃー勝ててよかったねぇ」
「ほんとだよもー。クリンナップにマジ感謝。俺次っからノーエラー目指すわ」
じゃー風呂行くねぇ。
リビングを出て行く息子の背中を見送りながら、母は、彼の溜め息まじりの決意に微笑んだのだった。
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