【お題「記念日10種」:locaさまより】
01.始まりの日
夕明りと蛍光灯の光が混ざった台所に立っていると、キャベツを切る音に重なって、口々に明日の約束を交わし合う声が外から聞こえた。
そしてそのあとに続く、階段を駆け上がってくる元気な足音。
それがドアの前で止まり、がちゃりとドアノブが回る音がして、小さな息子が「ただいまっ」と駆け込んできた。
狭い四畳を通して振り返りながら「おかえりー」と応え、あれ、とその顔を見直す。
息子の猫のような大きな瞳が、輝き始めたばかりの一番星を閉じ込めたみたいにきらきら光っている。
「今日ね、野球、やったんだよっ」
部屋を横切って母のそばに寄ってきたかと思うと、息子は開口一番にそう報告した。
遊んでいるときの興奮をそのままに、息子の口調はぽんぽん弾んでいる。
「やきゅう?」
「うんっ! すっごく、すーっごくおもしろかった!」
胸のうちの幸福感を言葉だけでは表現できない、というように、息子はか細い両腕で大きな円を描いてみせる。
「そっかあ、おもしろかったかあ、野球」
母はタオルで軽く手を拭いて、息子の前にしゃがみ込んで視線を合わせた。
すると息子はとっておきの内緒話をするかのように、秘密めかしてこっくりとひとつうなずく。
引っ込み思案で人見知りの激しい彼が、こんなに楽しそうな顔でその日のことを教えてくれるのは珍しい。
それをリアルタイムで聞いてやれることがうれしかった。
今日は仕事が早く終わってよかったと心から思う。
「ハマちゃんがね、いっしょにやろうって言ってくれたんだよっ」
「そっかあ。よかったねえ、廉」
「うんっ!そいで、明日もやろうなって!」
「そっかー」
息子の髪をくしゃくしゃと撫でる。
猫のように柔らかな髪の毛。
「じゃーお父さんが帰ってきたら、野球の話してあげようね?」
「うんっ!」
うなずいた息子の顔にはこんなうれしいことはないと言わんばかりの笑顔で、母はその光景以上の幸せなんてないんじゃないかと思う。
「お父さん早く帰ってくるといいねー」
「うんっ」
この幸せな気持ちを分け合いたいから、早く、早く帰っておいで。
待っているのは3玉100円の焼きそばと、かわいい息子の笑い顔。
02.生まれた日
高校野球が好きだった。
それこそ物心ついたころから。
少女時代には、高校生になったら野球部のマネージャーになって甲子園に行く選手たちをサポートし、自分の校歌をあのアルプススタンドで誇らしさに胸を熱くしながら聴くのだと信じていたし、大人になったとき結婚するのは甲子園の土を踏んだことがある人に違いないと勝手に思い込んでいた。
どこでどう間違ったか、野球のやの字も知らない人と落ち着くことになったけれど、まあ、人生そういうこともある。
そしてそれに合わせて人の夢も変わるのだ。
「絶対女の子だって言われてたのに」
大したもんだよね、君の野球好きは。
感嘆半分あきれ半分に夫から言われて、そうでしょ、と得意げにうそぶいてみせた。
腕に抱かせてもらった、生まれたばかりの息子の手は、ふくふくと柔らかくボールよりも小さい。
それでもきっと、すぐに大きくなる。
すぐに立ち上がり、歩き出し、走り回るようになる。
そのときこの子は母の希望通り、バットを、ミットを、ボールを、選んでくれるだろうか。
ダイヤモンドを中心に繰り広げられるドラマに、参加してくれるだろうか。
「名前どうしようか。女の子の分しか考えてなかったし」
「まあ、ゆっくり考えよっか」
どんな名前がふさわしいだろうか。
ふっくらした、マシュマロのような頬をそっとつつきながら思う。
電光掲示板に表示される君の名前。
それを、真夏の太陽の下、あのアルプスで見つめることができたら。
「いい名前考えなくっちゃね」
君が生まれた日、それはママの夢が生まれた日。
03.待ちに待った日
息子は、緊張した、不安そうな顔つきをしていた。
制服の白いワイシャツ姿で、まだまだ子どもらしい華奢な体を、なんだか痛々しいほどぴんと伸ばしている。
横から夫がからかうように笑う。
「そんな硬くならなくても大丈夫だよ」
「ほら、辰太郎」
やっぱりおかしそうに微笑んだ祖母からそれを差し出され、息子は切羽詰まった、助けを求めるような表情でこちらを見た。
思慮深い、慎重な子なのだ。
「大丈夫だから。そーっとね」
「うん……」
あいまいにうなずき、息子はぎこちなく両腕を広げた。
そこに、薄い桃色の布に包まれた小さな小さな娘が、ゆっくりとおさまる。
「はい、お兄ちゃんですよー」
低く、歌うような祖母の声は、息子には聞こえていないかもしれない。
彼の視線は、生まれたばかりの小さな小さな妹に釘付けになっている。
目をまん丸くして赤ん坊を見つめ続ける息子の様子がおかしくて、母は夫や祖父母たちと笑みを交わし合う。
さざ波のような笑いの気配が伝わったのか、息子の肩からようやくふっと力が抜ける。
「どうだ?辰太郎」
祖父に問われ、息子はひとつ大きく息を吐き出した。
「めっちゃくちゃ、かわいい」
一言そう言ったかと思うと、息子の顔にもやっと笑いが浮かぶ。
照れくさそうな、くすぐったそうな笑い顔だ。
「よし、写真撮るか」
「え、このまま?」
「そのままそのまま。辰太郎、窓側に立って」
父親に指示されて、息子が(なぜかすり足で)窓のほうへ移動する。
白い陽光のなかに息子と娘が立つ。
「はい、じゃあこっち向いて」
そう声をかけられ、息子はうれしくてしょうがなくてどんな顔をすればいいかわからない、みたいな含み笑いをした顔を上げた。
「はい、チーズ」
世界でいちばん清らかで大切な光景が、シャッター音と同時に記憶に刻まれた。
04.怒りの日
「ただい、ま――」
途中まで言いかけて口をつぐんだ。
足を踏み入れたリビングダイニングに立ち込めていたのは、和やかな「おかえりなさい」の声を期待できるような空気ではなかったからだ。
食卓でひとり、どんぶりからラーメンをすすっている息子の表情と、その向こう、ソファの背もたれから見えているのに、テレビを見つめたまま身動きひとつしない妻の頭、というこの光景。
「おかえり」
「あ、ああ」
3人いるうちの真ん中の息子はぼそりと言って立ち上がり、スープの残ったどんぶりを流しにおろして水道をひねった。
途方に暮れた父は、とりあえず声をひそめて「どーした?」と息子に聞いてみた。
「逆切れされた」
慣れを感じさせる適当な手つきでどんぶりを洗う息子の返事を聞くまでもなく、答えはわかっていた。
第二次反抗期真っ最中の息子と妻の摩擦は、すでに日常茶飯事になっていたからだ。
長男はそれほどでもなかっただけに、次男の典型的反抗期の症状を、妻はだいぶ前から持て余していたのだ。
たいていは息子がぶすっと黙り込んで不機嫌を表し、それに妻がおろおろする、というパターンなのだが、時たま妻が、息子の言葉を借りれば「逆切れ」し、反撃、もとい家事のストライキに出る。
そうかあ、と溜め息交じりに父は言って胃のあたりを押さえる。
空腹だった。
「兄ちゃんたちは?」
「もーメシ食って部屋」
「なに食べたんだ?」
「なんかテキトーに。コンビニ行って」
「……そうかあ」
息子は洗い物を終えて手をふくと、さっさと部屋を出て行った。
あの調子では息子から和解を申し出ることはまずない。
こんなとき、ひとりでも女の子がいれば違うのかなあとこっそり思う。
空気を和らげるという意味でも、夕食的な意味でも。
(次男は料理自体は好きで得意だが、こういうときは絶対にその腕を披露してくれない。)
それともそんなことを考えるのはもう時代遅れなのだろうか、と思いながら、視線を巡らせた。
「母さん、腹減らないか?」
何か食いに行こう、おごるから。
可能な限りの朗らかな声で呼びかけてみる。
しかし返ってきたのはにべもない「結構です」という声だけだった。
けんもほろろとはこのことだ。
当人同士は気づいていないだろうが、妻と次男はこういうところがそっくりなのだ。
怒りの表現方法。
空気を冷え冷えと、そして電気をはらんだようにびりびりさせる怒り方。
解決方法はただひとつ、ともかく待つこと。
長年の経験でそれで学んでいる父はしかたなく腹をくくり、冷凍庫から探し出したうどん2人前を調理すべく、鍋に湯を沸かし始めた。
05.決まった日
春になりかけた、暖かな日だった。
収穫間近のブロッコリー畑に出ていた母は、「お母さーん!!」という、広大な畑中に響き渡る声に顔を上げた
その声の主である末の息子が、あぜ道の真ん中で大きく両腕を振っていた。
母の視線をとらえた息子は顔じゅうで笑って、その腕を大きく丸の形にして見せた。
「受かってたー!!」
「ええっ、本当!?」
思わず母も、いつにない大きな声(とは言っても息子の数分の一の大きさだけれど)を出してしまった。
間際まで担任教師から願書提出を渋られていた第一志望の高校の、合格発表が今日だったのだ。
母は立ち上がり、大きな麦わら帽のひさしをちょっと上げ、広がる畑のなかに人の姿を探した。
やや離れたところに義父の姿を見つける。
「おじいちゃん! 悠受かったって、西浦!」
「おお、やったか!」
帽子の下の日に焼けた顔がほころぶのが、遠目でもわかった。
祖父も膝を伸ばして立ち上がり、孫息子に向かって叫び返す。
「悠一郎ー! 番号見間違えたんとちがうんかー!?」
「ちっがうよー!! 何回も確認したしー!!」
「そらめでたいこった」
がんばったなあ。
義父はしみじみとそう言って、目を細めた。
――俺西浦受けるわ、いちばん近いしー
息子があっけらかんとそう宣言したのが昨年の秋口だった。
心身ともに健康であればそれでよし、という家風のもと、すくすく育ってきた末っ子の、ダイナマイト級の爆弾発言だった。
絶対無理。
考え直せ。
自分の成績わかってんの?
つーか野球の推薦受ければいーじゃん、勉強キライなんだしさあ。
兄や姉たちのそんな言葉に対して「受けてみなきゃわかんないじゃん!」と頼もしく反論した彼は、それから毎日猛勉強を始めたのだった。
「美輪子さん、今日は赤飯だなあ」
「ほんとに。 ――あ、悠ー! お父さんたちにも知らせてきなさいよー!」
「今から行くー!!」
ぶんぶんと腕を振って返事をすると、息子は家に向かって足取り軽く駆けていった。
早送りみたいにみるみるうちに遠ざかっていく背中を見つめながら、誰に似たのか、本当に有言実行の子だと母は思う。
もっと楽な道だってあったのに。
彼の高校受験に渋い顔をしたのは学校の先生だけではなかった。
野球チームの監督には最後の最後まで「もったいない」と言われ続けた。
そんな周りの反応に、母も揺れないわけではなかった。
息子にとっての野球がどういうものなのか、そして野球という競技において、彼がどんな才能を授かっているのかも、わかっているつもりだった。
それでも彼は平然として言ったのだ。
甲子園に行くチャンスはどこの高校にもあるけれど、家にいちばん近い高校は西浦だから、と。
からりと笑って、迷いのない口調で。
――だーいじょうぶだよ、西浦にもちゃんと受かるし、甲子園にも行くからさ!
そして彼はその宣言の前半を成就してみせた。
はたして後半はどうなることやら。
ひとまず今日はお祝いだ。
盛大に、心から、家族全員で、彼の快挙を讃えよう。
06.普通の日
「勇人ー。7時過ぎたよー」
その声で目を覚ます。
目覚ましは7時前にかけておいたはずだったのにと思い、目をこすりながら起き上がる。
知らないうちに止めてしまったらしい。
カーテンの外の明るい光とは反対に、気分は憂鬱だった。
「勇人ー!」
「はーい」
その声に急かされて布団からはい出し、着替えて1階へ下りていった。
「おはよー」
「おはよう」
「おはよ」
父も弟も、もう朝食を食べ始めていた。
食卓に姉の姿は見えず、洗面所だろうなと見当をつける。
部活の朝練がある姉は、ほかの家族よりも一足早く朝食を食べて家を出ていくのだ。
「兄ちゃん寝坊ー?」
「んー」
「昨日寝るの遅かったからねえ」
小テストがあるんだって、とその声が言う。
味噌汁を手渡してくれながら。
「テストか。ひょっとして数学?」
「うん……」
父に聞かれてうなずく。
成績自体はそう悪くはないけれど、数学はどうも好きになれない。
表情の暗さを見て取ったのか、その声が苦笑気味に言った。
「うちはお父さんもお母さんも文系脳だからねー」
申し訳ないけど自力でがんばってね、と言われ、ご飯をかき込みながらあいまいにうなずいた。
「ほら勇人、お母さんの分、卵あげる」
その言葉とともに、皿の上に卵焼きがのせられる。
甘党の父のために砂糖を多めに入れて作った卵焼きだ。
「しっかり食べて血糖値上げて、しっかり頭働かせなきゃね」
笑いを含んだ声で言われて「はーい」と答える。
父に似てやはり甘いものが好きな自分にとっても、それがひそかな好物であることを、わざわざ言わないけれどわかってくれている、声だった。
生まれてからずっと、何百回と繰り返された、胸が震えるほどに普通の、朝の光景。
07.失くした日
天気予報がしっかりと当たって、午後から雨が降り出した。
野球部に入っている息子は、きっといつもより早く帰ってくるだろうと思ったから、おやつにドーナツを作っていた。
穴の開いた丸いのではなくて、息子のお気に入りの三つ編み型のドーナツだ。
最後の生地をねじり終え、よしと一息ついたとき、ちょうど電話が鳴った。
通話ボタンを押してはい水谷ですと言い終えないうちに、「ねーねー!」という声が受話器から飛び出してきた。
「あれ、文貴?」
―そー。ねー、傘なくなっちゃったから迎えに来てほしーんだけどー。
「なくなったー?」
母は思わず声を高くした。
だっていつも彼が学校に持っていくのは今年の梅雨入り前に買った(というか、ねだられて買わされた)ばかりの新品で、コンビニで売っている無色透明のビニール傘ではないはずだ。
「なくなったって、やだ、盗まれたの?」
―んーん。そーじゃないけどー。
まー話せば長いからとりあえず迎えに来てー。
息子が電話の向こうでそんなことを言うので、母は電話を切り、しかたなく愛車のキーと上着を取りに行った。
「なくしたってゆーか、友達に貸しちゃったんだよね」
助手席に乗り込んだ息子は悪びれずけろっと言った。
肩のあたりが濡れてしまったブレザーの上着を脱ぎ、いそいそとネクタイをほどきにかかる。
「友達ー?」
「そ。結構家遠いヤツだったから傘なしじゃカワイソーじゃん?」
話せば長いと言ったくせに、傘紛失の説明はたった二言で済んでしまった。
(そもそもそういうのは紛失とは言わない。)
盗難やいじめの前兆というわけではないらしいことには安心したし、友達思いもいいことだと思うけれど、母はどこか釈然としない。
「それはそうだけどー。おかーさんだって雨のなか出かけなきゃいけなくなっちゃったんだけど」
「いーじゃん、車なんだしー」
俺とドライブできてうれしーでしょー。
カーオーディオをいじって聴きたい曲を呼び出しながらそう言う息子の口調は、あくまで軽い。
なんだかやけにご機嫌だな、と母はちょっといぶかしく思う。
雨の日は猫っ毛がうまくまとまらない、なんて生意気を言って憂鬱そうな顔をするくせに。
「傘って誰に貸したの?」
ウインカーを上げながら何気なく聞くと、「え!?」と息子が大きな声を出した。
その音量にびっくりして横目で息子を見る。
「誰って、だから、トモダチだけど?」
息子はしどろもどろに答えた。
不自然なほどうろたえた顔をして。
ははあ、と、母はぴんときた。
「だから、トモダチってだれー?」
「だからっ、クラスのヤツだってば、フツーに」
フツーに、は墓穴だなあ。
ハンドルを切りながらひそかに思う。
「女の子なんだー?」
「ちっがうよ!」
否定の声がやや大き過ぎた。
本当に嘘が下手な子だ。
そう思うと笑えてくる。
「へえー。おかーさん、文貴がそんなジェントルマンだとは知らなかったなー」
「だから! ちがうってば!」
怒ったように否認し続ける息子の声を聞きながら母は笑った。
笑いながら、胸のうちでは小さく溜め息をついた。
きっと「家に帰ったらドーナツ揚げるよー」と言えば、彼は「やった!」とうれしそうに笑うだろう。
笑顔を、幸せを、この手で彼にあげることができる。
まだ今は。
だからまだ完全には失くしていない。
自分に言い聞かせるようにそう思い、母はワイパーの速度を上げた。
08.救われた日
「……俺、ピッチャー向いてない気がする」
ぽつりと聞こえた声に、洗濯物をたたむ手を止めて顔を上げる。
こたつに潜り込んで両手で頬杖をつき、テレビのほうを向いている息子の顔はこの角度では見えなかった。
時刻は午後6時前で、日曜日のその時間帯はいつもニュース番組をかけてある。
息子の後頭部からテレビ画面に視線を移すと、今はスポーツコーナーが流れている。
十代プロゴルファーのその日の不調を伝えるニュースから、フィギュアスケートの話題に切り換わるところだった。
これまた十代の若い選手のニュースだ。
この手のニュースを見るたび、母はこういう子たちはどんなふうに育ってきたんだろう、と考える。
勝負の世界に幼いころから身を置いて、そこで抜きん出た存在だったからこそ、彼らはこんなふうに脚光を浴びているのだろう。
この子たちは、やっぱり小さいころから他の子を押しのけて高みに登っていける強さがあって、そこに楽しみや喜びを見出していたのだろうか。
そういう子たちがひしめいているのがスポーツの世界なのだとしたら、うちの子がそれに参加している理由が本当にわからない、と母は思う。
几帳面で気の優しい子だけれど、我が強かったり、勝ち負けに伴うスリルを楽しめたり、という子ではない。
自分自身が学生時代も今もスポーツとは無縁に生きてきて、そしてこの息子の性格はほかでもない自分似だ。
想像してみる。
自分がいきなりそんな世界に放り込まれたら。
けれど息子は放り込まれたわけではなく、自らそこに入っていったのだ。
そこで彼が味わっている葛藤は、だから母にはうまく思い浮かべられない。
母はそっと、寝転んだ息子の後ろ姿を眺めた。
中学に入ってから、一日ごとに背が伸びている気がする。
母の背を追い越してしまうのも、もうじきだろう。
「いいんじゃない、向いてなくたって」
カズはピッチャーやりたいわけじゃないんでしょ。
母の声は聞こえているだろうに、息子の後頭部は彫像のように動かない。
「カズは自分のがんばりたいことをがんばればいいんじゃないの」
今の自分の言葉が、彼のいる世界において、どれだけ正しいのかはわからない。
だんだん遠く、母には未知の場所に行ってしまう彼に、いつまで自分の言葉は届くだろうか。
そんなことを考える。
6時5分前になり、ニュース番組が終わった。
息子は頬杖を崩してぺたりとカーペットにうつ伏せになりながら「そうかなあ」と言った。
その声から重苦しさが少し除かれている気がした、あるいは、そうであるように祈った。
「たぶんね。おかーさんもよくわかんないけどさ」
「テキトーだなあ」
あきれたように言う彼の声は笑っていた。
母には、それは、そのことだけはよく、わかった。
09.忘れられない日
あんたそろそろ床屋行かなきゃね、と何気なく言っただけなのに、次男が驚くほど敵意のこもった目でにらんできたので母は思わずたじろいだ。
まるで親の仇を見据えるような鋭い視線である。
そんなものを実の親であるところの自分に向けるだなんていったいどういう了見だ、と思い、母は「何よ?」と聞いてみる。
「もうすぐ入学式なんだし、きちっとしてきなさいよ」
「いーんだよ、伸ばすから」
「伸ばす?」
息子の返事に、母は頓狂な声を出した。
坊主頭の名残を残した、いがいがの息子の髪の毛を改めて眺める。
「なんでよ? 高校も野球部入るんでしょ?」
また坊主にしたらいいじゃない、楽なんだし。
母がそう提案すると、息子の視線に険しさが増した。
「もー坊主にはしねーし」
ぼそりと息子は言う。
「しないったって。高校球児は坊主でしょうが」
「おふくろの時代とは違うんだよ。髪長い球児なんて今いくらでもいんじゃん」
「そりゃーそうだけど」
「だからもー坊主にはしない」
やけにきっぱりとした強い口調で息子が宣言する。
母は首をひねった。
この子はそんなにあの髪形を嫌悪していたっけ、と考える。
「まあおかーさんは別にいいけど。似合ってたのに、坊主頭」
これもやはり何の気もない言葉だった。
それなのに、返事をしない息子を不審に思って目を上げたとき、息子が発している、ほとんど憎悪ともいえそうな怒りに満ちた視線と出会い、母はぎょっとした。
「えっ、ちょっとなに怒ってんの?」
「……さんざん人のこと笑ったのはどこのどなただよ」
「は?」
「自分に都合の悪いことだけ忘れてりゃあ世話ねーや」
生意気な口をきいたかと思うと、息子はふいとそっぽを向いて部屋を出て行った。
「えーちょっと孝介! どういうことよ!?」
母の投げかけた疑問はぴしゃりと閉められたドアにぶつかって散った。
その後帰宅した長男から、次男が部活の顧問命令で初めて丸坊主にしてきた日、「似合わない」と言って家族全員で笑いものにしたことを母が思い出すのは、数時間後のこと。
10.終わった日
ただいま、と自分で鍵を開けて家に入りながら母は言った。
そのあとに、やっぱり独り言のような「ただいま」を言いながら息子が続く。
いつもどおり(手洗いうがいと洗濯物を出すために)洗面所に直行する彼の背中を眺めながら、母はやれやれと思わずにいられない。
負け試合は何もこれが初めてではないし、そのあとの彼のものすごいような沈黙としかめ面と、そのさらにあと、ビデオを観ながらの父親との白熱した反省会にも、もうさすがに慣れた。
でも今日はなあ、と思い、母は憂鬱になる。
関東大会という彼が経験したなかでいちばん大きな大会の、しかもベスト8をかけた試合だった。
そしてそのうえ、母が記憶している限りで最大の点数差での敗戦だった。
精神的なタフさは父親譲りの子だ。
だからどんなにこてんぱんに打ち込まれて負けた日も、監督にぼろくそに叱られた日も、慰めてやらなければ、なんてことは思わなかった。
転んでもただでは起きない、落ち込む間があるならそこからひとつでも何かつかんでやろうとするようなしたたかな子だったからだ。
それでも、今日はさすがに堪えたのだろう。
早ければ帰途の車中で始まっているはずの父子ミーティングもなしで、息子は黙りこくったままだった。
さすがに今日は堪えただろうな。
いくらお父さん似って言っても、繊細な私の子でもあるワケだし。
うん、とひとりうなずいて、母も洗面所へ向かった。
顔を洗っている息子の背中に、できるだけ明るい声で言う。
「タカ、今日の夕飯、どっか食べに行こうか」
息子はびしょ濡れの顔のまま、鏡越しに母を見た。
「何がいい? おかーさん久しぶりにお寿司食べたいな。お父さんにおねだりしてみよっか」
「なんで?」
「関東大会も終わったわけだし。打ち上げ」
なるべく自然に、にっこりと笑ってみせる。
ところが、母のとびきりの笑顔を不思議そうに見つめていた息子から返ってきたのは、そっけない「別にいーよ」という言葉だった。
「え、なんでよ。タカだって好きでしょ、お寿司。あ、それとも焼肉にする?」
「そーじゃなくて。外食だと帰り遅くなるし、家で食おーよ」
「いーじゃない、明日休みでしょ?」
「でもビデオ観るし、明日だって準々決勝観に行くし」
「……ビデオって今日の試合の?」
母は思わず聞き返したが答えはわかっていた。
野球関係以外のビデオ鑑賞に、この長男が最後まで付き合ってくれたためしなどないのだから。
そーだよ、と、息子は顔をタオルでごしごし拭きながら答えた。
「フロ行っていい?」
「え? あ、あー、うん」
「とーさんにビデオ用意しといてって言っといて」
そう言うと、息子はさっさと洗面所を出て自分の部屋へ上がっていった。
あっけにとられた母を残して。
――訂正。
母は、鏡に映った間抜けな自分の顔を見ながら、胸のなかでそう唱えた。
タカったら私のナイーブさなんてこれっぽっちも受け継いでやしない。
心配するだけ損だったようだ。
ほんっとーに図太い子。
そう思い母は笑った。
打ちのめされて立ち上がるのに母の手なんて必要としない。
かわいげないんだか、頼もしいんだか。
なるほど関東大会が終わっても、彼の野球人生が終わったわけではないのだ。
今日の反省会はいつも以上に長引くうえにうるさくなるんだろうな、そう覚悟を決めて、母は溜め息をついた。
前進すること、向上すること、そのための努力。
彼の闘いが終わらない限り、それはずっと続いていくのだ。
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