READY STEADY GO!
自分の昼食用のパンと栄口に頼まれた飲み物を買って教室に戻ると、
見慣れたようで見慣れていない、にへっと笑った顔に出迎えられて「あれ」と思った。
見慣れたようで見慣れていない、と言ったのは、水谷の顔自体は毎日見てるから別に珍しくもなんともないけれど、
部活以外の場所で、しかも1組の教室内でそれを見かけることはあまりなかったからだ。
「おかえりー」
「おかえりー」
「……何やってんの?」
口をそろえて声をかけられ「ただいま」とでも返すべきなのかと3秒くらい迷ったけれど、結局巣山はそう言った。
栄口の前にペットボトルの烏龍茶を置いて席に着く。
「突撃隣の昼ごはん?」
「イヤ隣じゃねーし」
「今日は1組でお昼の気分だなーって思ったからさあ」
「どんな気分だよ」
「巣山のツッコミはいーなー。なんかこう、愛があって」
「イヤねーからそんなん」
「またまた照れちゃってー」
ゆるりとした笑顔でそう言われて、巣山は文字通り閉口した。
こうやっていちいち受け止めるからいけないのか、ああそうか。
水谷を相手取るとき、見習うべきはきっと阿部の適当な生返事だ。
胸の内で復習しながら巣山はパンの袋を開けた。
「巣山聞いた?明日からの地獄日程」
「おー。5時集合だって?」
午前中夏大の抽選会に行っていた栄口は、4時間目から学校に戻ってきた。
抽選会での事の顛末は既に聞いている。
「しっかし花井もよくあんな当たり引いたよなあ」
「大当たり過ぎだよね。マジびびったよ」
「拍手スゲかったもんねー、会場」
「俺も生で見たかったわ、ソレ」
湧き上がる歓声と拍手。
ステージの上でスポットライトを浴びているのは、きっと頭のてっぺんまで青くなった我らが主将。
その手に握られているのは桐青高校のお隣の番号が記された札だ。
そうそう見ることのできる光景ではない。
惜しいことしたなと、巣山はわりと本気でそう思っている。
「でもショージキな話さ、どう思う?」
弁当箱の包みをといて、律儀に「うまそお!いただきます!」をやってから昼飯を開始した水谷が、巣山を見て言った。
「どーって?」
「桐青だよ?去年の優勝校よ?」
「んー……。まあ、冷静に考えりゃ、なあ」
勝てる、とはとても言えない。
けれど「負けるだろ」とは言わずに返事を濁したのは、口のなかで咀嚼中のコロッケパンのせいではない。
実際に対戦してもいないうちから負けるなんて思っていたのでは、勝てるものも勝てなくなる。
相手が去年の頂点だろうとそれは同じだ、そう思いたい、そんななけなしの意地からだ。
それに。
「でも勝つ気なんだろ。監督と四番とキャッチは」
「なんだよね」
巣山の視線に栄口がうなずく。
モモカンは本気だよ
午前5時集合午後9時上がりという監督の提案を聞いて呆気に取られる巣山に向かって、栄口はそう言ったのだった。
そりゃあ本気も本気だ。
「まーでも、辞退するわけにもいかねえし、やるだけのことはやらねーとな」
「アッサリしてんねー巣山」
「だって硬式になって初めての公式戦じゃん?後世まで語り継がれるよーな恥ずかしい試合したくないし」
「あ、そっか」
「そーいやそーだ」
水谷も栄口もたった今気づいたらしく、感心したようなセリフがかぶった。
「そっかー。硬式の大会は初なんだー」
「なんか、それで桐青ひいてくる花井って……」
「凶悪的なクジ運だなー、マジで」
真面目で責任感の強い主将のことだ、やらかしてしまった後悔に苛まれていなければいいが。
阿部は1ミリグラムの容赦もなく追い討ちをかけてそうだし。
7組で繰り広げられているかもしれない、そんな胸の痛む場面を想像して、ふと気づく。
「そーいやホント、なんでここにいんの、水谷」
「へ?」
「阿部の機嫌、そんなにわりーの?」
「え、イヤ別にー?」
「阿部ははりきってたよね、ムシロ」
「じゃーなんでわざわざウチのクラスでメシ食ってんの」
てっきり阿部の毒舌から避難してきたのかと思ったのだが、そうではないらしい。
巣山が率直に疑問を口にすると、水谷はなんだか決まり悪そうに、「あー……」と言いながら目をそらした。
「あのさあ」
「なに」
「……ええっとですねー」
珍しく口の重い水谷に、巣山は栄口と顔を見合わせた。
栄口は事情を知っているのかと思ったが、その不思議そうな表情を見ると何も聞いていないみたいだ。
「ちょっと教えてほしーんだけどさー」
「教える?」
「何を?」
口々に問われて、水谷は思い切ったように箸を置いたかと思うと、思い詰めた表情で言った。
「エラーしないコツとかある?」と。
水谷の必死な顔をぽかんと見つめ、巣山は再度、栄口に視線を移してみた。
栄口も同じくきょとんとしていたが、「どしたの、急に」と巣山が思っているとおりのことを言ってくれた。
「いやー……。俺さあ、今んとこエラー王なの」
「エラー王?」
「……いちばん多いんだよね」
軽い口調を装ってはいるが、水谷の表情は陰鬱だ。
自分のエラー数がチームでいちばん多いと知っているということは、今までのスコアをそれだけ神経質に見ていたということだろう。
どうやら口振りからうかがわれるよりもずっと、水谷はそのことを気にしているらしい。
「今日さあ、抽選会で阿部が言ってたじゃん?」
守備で変なミスさえしなきゃあ、三橋が完封してくれるって。
水谷が引用した阿部の強気発言の、後半部分は栄口から聞いたので巣山も知っている。
アイツほんと三橋スキだよね、と苦笑し合った。
けれどそれはそんな条件つきだったのか。
なるほど確かに、野手の立場からすればなかなかプレッシャーのかかる言葉だ。
巣山は水谷の心境を得心した。
「阿部のアレさあ、ひょっとして俺のこと言ってんじゃないかなーとか思ったりしてさあ」
「え、それは考え過ぎだって」
「イヤでも俺前科もちだしさあ」
「前科?」
物騒な言葉を巣山が聞きとがめると、「まあエラー王だから」という言葉が返ってきた。
水谷にしてはスタンスが自虐的だ。
よほど気に病んでいるのだろう。
「それでさあ、やっぱ、こう、このままじゃイカンぞと思ったわけですよ」
「あー。なるほどー」
栄口がやんわりとした笑顔で相槌をうつ。
「エラーしたら良心痛むもんねー」
「そーなんだよ、ピッチャーが三橋だからよけーにそーなの」
三橋はさ、俺らがエラーしてもぜんぜん怒ったりしないじゃん。
水谷が弱り切った顔で言った。
「そだね」
「つーかまるで自分のせいみてえな顔するよね」
「そう!そこなんだよ!」
巣山が、マウンドの上で青くなったエースの顔を思い浮かべて言うと、水谷がびしっと指を突き出した。
「俺、中学んときのエースがわりと気ぃ強いほーでさ。エラーなんてしようもんなら舌打ちきたからね」
「ああ、いるよなそーゆー投手」
「まー別にいいんだけどね、確かにエラーするのが悪いんだし。でも三橋は、俺が悪いのに、俺が謝ったら謝り返してくるんだよね。ホント、三橋が悪いみたいにさ」
あれキツイんだよねーと、水谷が笑う。
どこか痛みでもするような笑い顔だ。
「まだ舌打ちのがマシだよー」
「……ああ。わかるかもソレ」
このチームで最初の練習試合の前に聞いた、罪の意識、という言葉を思い出す。
阿部の口から出た言葉だ。
そんなたいそうな、とあのときは思ったが、実際に三橋のチームメイトになってみてわかった。
三橋はいつもいつも申し訳なさそうな顔をしている。
それこそ廊下で偶然すれ違って、声をかけたときでさえも。
謝りたそうなのにそれすらできない、みたいな、苦しそうな顔をする。
そういう三橋を見るたびに、疎まれて嫌われてそれが辛くて辛くてしょうがなかった三橋の3年間を感じた。
15歳のガキにしてみれば3年間というのは人生の5分の1で、そんなにも長い時間、
チームメイトからの敵意とひきかえにしがみついていた背番号1、というのは、
三橋にとってどれだけ重みのあるものなんだろう。
田島直筆、いたずら書きみたいな、練習着の背中の「1」を思い浮かべて考える。
「だからさあ、次の試合は何が何でもエラーしたくないの、俺」
きっぱりとした水谷の言葉を聞いて、栄口のほうを見てみたら計ったように目が合った。
次の瞬間にふっと緩んだ栄口の表情から推すと、どうやら同じことを考えているみたいだ。
水谷、と栄口がやけに丁寧に呼んだ。
「え?」
「いーヤツだねえ、水谷は」
栄口の笑顔に、水谷がぽっかりと口を開けた。
少し遅れてから、巣山にもにやにやと見守られていることに気づいたらしく、水谷はあたふたと赤くなった。
「え、いや、そーゆー話じゃなくってさ!」
「まあまあ。そう照れなさんな」
「おー。俺ちょっとカンドーしたもん。胸に刻むわ、今の言葉」
「てゆーか三橋に言ってやりなって。泣いて喜ぶぞーきっと」
「ちょっともーマジやめてってば!」
照れくさくてしかたないのだろう、水谷はわざとらしく乱暴な口調になった。
「そうじゃなくて!エラーしないコツを教えてって話じゃん!」
「ないない、そんなのない」
「うっそだあ!」
「そーだよねえ、プロだってエラーすんだし。水谷はその、エースに対するあっつい気持ちがあれば大丈夫だよ」
「そーそー」
「もー2人してバカにして!」
「バカになんてしてないって。なあ巣山」
そう言う栄口の顔は依然として笑っていたが、それでも巣山にもよくわかった。
栄口にしても巣山にしても、水谷にかけた茶化すような言葉、どれひとつとして嘘ではなかった。
「ないないしてない」
心から、巣山は否定した。
じわじわと闘争心のようなものが沸いてくるのを感じた。
食べている最中だったけれど、そうだきっとこれがチロトロピンだと、思った。
相手が強豪だからとあきらめるのは簡単だ。
そんなのつまらない。
そんな言い訳は試合のあとにすればいいのだ。
これまで全勝中の練習試合、最後のアウトを取ったあとも、ちっとも誇らしそうな顔を見せないエースのことを思う。
もし桐青に勝てたとしたら、三橋は、そのときにもああいう、皆さまのお陰で勝てました的な顔をするのだろうか。
それとも今度という今度は、一点の曇りもない自信に満ちた顔で笑うのだろうか。
見てみたい、ではないか。
自信いっぱいの三橋の顔なんて。
「俺もエラーしないようにがんばろ」
「俺もがんばろーっと」
まだ不満の色が消えない水谷を前に、ハムサンドをかじりながら巣山が言うと、栄口が便乗してきた。
「もーやっぱバカにしてんじゃーん!!」
「してねえって。なあ?」
「ねえ」
水谷がわめくのを受け流しながら、巣山と栄口はうなずき合った。
夏大まで1ヶ月と半分。
勝負はここから。
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