ぐるぐるまわる
チャイムの音をきっかけにして、水の底から引き上げられたように周囲にざわめきが戻ってきた。
顔を上げて周りを見ると、教室はすっかり授業中の雰囲気から解放されていた。
問題番号だけしか並んでいなかったはずの黒板には、しっかりと答えが書き込まれている。
教科書の練習問題を解き終わったところでうとうとしてしまったらしい。
やっぱ毎日みっちりはきついのかなあ
ブランクもあったしと他人事みたいに考えながら、巣山は黒板と自分のノートを見比べながら答え合わせをした。
他人事みたい、なのはきっと、部活に対してきついよりおもしろいという印象のほうが強いからだと思う。
練習より試合のほうが好き、というチームメイトが多いなか、巣山は練習も嫌いじゃない、というかむしろ好きだった。
もちろん試合もおもしろいし好きだけど、自分の場合、相手との勝負を楽しむというよりも、
ボールやバットに触れているのが単純に楽しいんだろうと思っている。
キャッチボールだって素振りだって好きだし。
そう言うと兄は「わかるわ、それ」と笑い、弟には「そんなんただの修行じゃん」と信じられないという顔をされて、
巣山は三人兄弟の真ん中というポジションを感じるのだけど。
幸い問題に取り組んでいる最中までは集中力はもったらしい。
めでたく全問正解で答え合わせを終え、赤ペンをしまい数学のノートを閉じようとしたとき、前の席から「巣山」と呼ばれた。
「なに」
「さっきの問題の最後んとこ、わかった?」
俺いまいち理解できてねーみたいなんだけど、と栄口が不安そうな決まり悪そうな顔をしている。
「あー。一応合ってたけど。解説すんのは俺も怪しい、かも」
「一応してみて」
「いやでも下手な説明して混乱させてもアレだし」
つーかあんま自信ないし、と巣山が言うと、栄口はそれ以上無理強いせず、
「あー……」と唸り声を上げながら数学のノートにらんだ。
「じゃー阿部にでも聞いてみよっかな……」
「へー。阿部って数学得意なの?」
理路整然とした物言いをするキャッチャーの顔を思い浮かべて、
巣山は「なんかそんなカンジ」と思ったままを口にした。
「らしーよ、俺も又聞きなんだけど。でも理系って感じするよねー」
数学に関する悩みは打ち切りにしたらしく、栄口はノートを閉じて体ごと後ろに向いた。
四月の席順は出席番号順のままで、1組にはたまたま佐々木さんも清水さんも鈴木さんもいないから、2人の席は前後ろなのだ。
野球の話をしてもおもしろいし(シニアというのは部活動出身者にとっては未知の世界だし)、野球以外の話をしてもおもしろい。
栄口が聞き上手なんだと思う。
自分はそれほど饒舌というわけでもないのに、
栄口といるときは、熱心な相槌やら促すような質問やらにつられるのか、よくしゃべっている気がする。
誰といて誰としゃべっているときでも栄口は楽しそうな顔をするから、安心してしゃべれるんだと思う。
いいやつだよなあ
つまり、この新しいチームメイトをしみじみと一言でまとめてしまえば、そうなる。
「 あ」
昨夜のプロ野球の試合の話をしていたとき(二人とも特に懇意なチームがあるわけではないから、気兼ねがない)、不意に栄口の表情が止まった。
巣山がその目線をたどると教室の後ろのドアのところに行き着いて、そこにひとり女の子が立っている。
栄口の視線をとらえてほっとしたらしく、肩身が狭そうにしながら1組の教室に入ってきた。
「なに?どした?」
「ごめん……」
なんだかひたすらに申し訳なさそうな顔をしたその子は一言目に謝った。
二人のやりとりを眺めながら、へー、と、巣山は思った。
かわいー子、という思いも、そのなかには含まれている。
「英語ってある?」
「あー。あったけど」
「ごめん、教科書貸して……」
「忘れたの?」
返事の代わりに、その子は「ごめんなさい」とますます小さくなりながら謝った。
しょうがないなと肩を落として、栄口が自分の机に向き直る。
英語の教科書を取り出してから「あれ?」と何か思い出したような声を上げた。
「でも昨日、英語の予習がどうとか言ってなかった?まさかそれも忘れたの?」
「ううん、ノートは持ってきたよ」
「じゃー教科書だけ忘れて来たの?」
あきれた、と言わんばかりの栄口の声に、その子はむっとしたらしい。
けれどそれを抑えるように視線を床に落として、もごもご言った。
「や、予習終わって力尽きたっていうか……」
「バカだなー」
なんで教科書だけかばんに入れ忘れるかなあ、と栄口が言うと、その子は顔をしかめて「バカってことないでしょ」と反論した。
「はいはい。ホラ教科書」
「……ありがと」
不服そうな顔で、けれどその子は礼を言って教科書を受け取った。
「じゃあ行くね。ごめんね、話してたのに邪魔して」
すまなそうな視線をちらりと向けられたので、巣山は「いいよ、別に」と言っておいた。
安心したように笑ってから、その子は「ねね」と栄口に向かって言った。
「野球部の人?」
「そ。巣山クン」
「巣山くん。よろしくー」
「よろしくー」
あいさつし返すとその子はうれしそうに笑って、「じゃあ行くね」とまた言った。
「終わったら返しに来るね」
「いーよ家で。姉ちゃんにでも渡しといて」
「あ……うん。わかった」
じゃあね、ともう一度言って、巣山にももう一回にっこり笑いかけてから、その子は小走りに一組を出て行った。
不意の訪問者を見送ってから数秒間、どちらとも何もしゃべらなかった。
巣山は栄口から何か言うかなと思っていたのだが、その気配がないのでこちらから口を切ることにした。
「彼女?」
「ちがうよ」
否定しながら栄口が息を吐き出した。
言うと思った、とでも言いたげな。
「あー、アレはね、ウチの南ちゃん」
「南ちゃんていうの?」
「いや名前はなんだけど」
「は?ナニソレ」
「んー。だからー」
オサナナジミってやつ?
普段に似合わず、栄口はどこか無造作にそう言った。
「ああ。だから南ちゃんか。家お隣なの?」
「んーん。お隣のお向かい。ハス向かいって言うの?」
「へえー」
巣山自身にそういう存在がいないからか、それこそタッチじゃないけれど、
幼なじみなんて、漫画のなかだけの話なのかと思っていた。
いるヤツにはいるもんなんだな、なんて、妙な感心をしてみたりする。
うなずいておいてから、「仲いんだね」と巣山は素直に感想を述べた。
「あー。そう見える?」
「え、仲悪ぃの?」
聞き返しながらそんなはずないと思った。
栄口が彼女に向けた「バカだな」というセリフを聞いて、「ああ仲いいんだ」と思ったからだ。
ほとんど確信に近い感触で。
知り合ってまだ1ヶ月弱にしかならないけど、栄口の口から、冗談でも人をけなしたりあざけったりする言葉を聞いたことがなかった。
何の気なしの「バカ」とか「死ね」とかが、会話のなかに蔓延しているこのご時勢に、である。
だからさっき、栄口が「バカだな」と言うのを聞いたとき、
「栄口でもバカとか言うんだ」と、巣山は大発見をしたような気持ちになったのだ。
それだけ親密というか、気の置けない関係なんだろうと思った。
相手の子が彼女であろうと幼なじみであろうと。
たとえば巣山家の、兄弟間での遠慮のない物言いと同じようなざっくばらんさを、栄口の口調から感じたから。
「イヤ、別にふつーにナカヨシなんだけどさ」
「なんだそれ。自慢?」
「そうじゃなくてさ。やっぱ珍しいのかなって思って。コーコーセーにもなって仲いいのって」
巣山は首をひねった。
珍しいも何も、幼なじみ同士というやつを記憶にある限り初めて目の当たりにしたばかりなので、うんともううんとも答えがたい。
「さあ……。でも別に悪かねーんじゃないの、仲良くたって」
「んー。まあ、そーなんだろーけどね」
なんとなく歯切れの悪い気がする栄口の言葉にかぶさるように、チャイムが鳴った。
休み時間の終了、イコール授業の始まり。
「次化学だっけ」
「おー」
どちらかというと理系の科目が苦手らしい栄口は、ややうんざりした表情を浮かべて自分の席に向き直った。
机のなかから教科書を取り出している背中に、巣山は「いろいろ複雑?」と問いかけてみた。
栄口が顔だけ後ろを振り返る。
「ああいうかわいー子が幼なじみだと」
栄口は不意をつかれたように目を丸くして、それからその目をふいと泳がせた。
「あー……まあ、それは追々にてことで」
「了解」
すんなりと返事をして、巣山も机のなかの化学の教科書を探した。
栄口が言いたくないんなら何も無理に聞き出すことはない。
そういうことに関する好奇心とか野次馬根性とかは、巣山は人並み以下にしか持ち合わせていないのだ。
「……つーかさ」
「ん?」
呼びかけられて目を上げると、栄口がやや当惑したような顔をしている。
「やっぱかわいい?アイツ」
うわ、アイツとか言っちゃうんだ
さすが幼なじみ、なんてわけのわからない賞賛を心のなかではしながら、「かわいいと思うけど、フツーに」と巣山は答えた。
「……だよねえ」
予想通りだけれど、それがうれしいわけでもない。
栄口はそんな返事のしかたをした。
「なにそれ。やっぱ自慢なの?」
「ちがうって」
「いろいろ複雑?」
もう一度同じことを聞いてみる。
栄口は一瞬何かを(たぶん、文句みたいなものを)飲み込んだような顔をしてから、「……まあ、そゆこと」と小さく言った。
不満そうな横顔が珍しくておかしくて巣山が笑ったとき、初老の化学の教師が教室に入ってきて、今度こそ会話は打ち切りになった。
練習を終えて家に帰り着いた時刻は、寄り道に付き合わなかった分いつもよりは早かったけれど、
それでも日はとっぷり暮れていて、栄口は自転車から降りるとき、
蹴っ飛ばすようにしてライトの電源を切ることを忘れなかった。
弟の自転車の隣に自分の自転車を止めて、鍵を閉めてから、かばんのポケットから携帯を取り出す。
メールの受信箱の、いちばん上。
表示されている、「」という名前を眺めて溜め息をつく。
練習直後に携帯を見たとき、部室ではつけなかった溜め息を今までためておいたのだ。
「部活お疲れさま。帰ってきたらメールして!」との要望どおりに、「家着いたよ」と返信する。
あーあ、と、練習の疲れをさらに濃く感じながら。
栄口が「ただいまー」と言って家に入り、手を洗って荷物を置きに二階の自分の部屋へ上がろうとしたときには、
「こんばんはーお邪魔しまーす!」と言いながらがやってきた。
さすが徒歩10秒のご近所さんだ。
階段の3段目に右足をかけたところだった栄口は、玄関に立っている幼なじみを振り返った。
「おかえりー」
「おー。なんか用?」
階段を上る栄口について、が後ろをついてくる。
幅の狭い階段を一列になって歩くと、いつも階段は軽くきしむ。
「教科書返そうと思って」
「あー。姉ちゃんに渡しといてって言ったじゃん」
部屋のドアノブを回しながら何気なく言った言葉だったが、「あ、いけね」と不意に思う。
を振り返ると、むっとしたような不満そうな顔をしていたから、ほっとした。
傷ついた、みたいな顔をしていたらどうしようと思ったのだ。
泣かれたり怒られたりは、わりに平気だ。
でも、悲しみとか怒りとかの感情を、顔に表す直前のの表情に、栄口は弱い。
泣き出す前の呼吸を忘れたような顔とか、怒り出す前の唇を噛みしめた顔とか。
「せっかくケーキ買ってきたげたのにそんな言い方するのー?」
むくれたしゃべり方。
そうやって、意思を伝えようとしてくれる分にはぜんぜんかまわないのだ。
「ケーキ?どこに」
「冷蔵庫」
「どこの」
「下の」
「お前人んちの冷蔵庫勝手に使うな」
「ちゃんと断ったよ!」
「あーハイハイ。で、なんでケーキ?」
今日は誰の誕生日でもなんの記念日でもない。
そういった口実がなくても、は何かと理由をつけて甘いものを作ったり買ったりしたがるけれど、今日はいったいなんだと言うのだろう。
エナメルバックを置いて、夕飯のためにまた階下へ向かいながら栄口が聞くと、
の顔がぱっと明るくなった。
その表情から推すと、どうやらそれを言いたいがために来たらしい。
「バイト決まったお祝い!」
「バイト……って、もしかしてモスの?」
「そー」
高校に入学する前の春休み、近所のファーストフード店に2人で行ったとき、アルバイト募集のポスターが壁に貼ってあった。
オレンジジュースのストローをくわえて興味深そうにそれを眺めていたかと思うと、
は不意に「私やろっかな」と言ったのだ。
「お前アレ本気だったの?」
「本気本気。今日面接だったんだー」
来週から行くんだよ。
また一列になって(ドラクエみたい、といつも思う)階段を下りながら聞くの声は弾んでいる。
「にできんの?一日でクビんなったりして」
「できるよー。スマイル0円得意だし!」
「イヤそれはマックだから」
芸のないつっこみを入れながら、二段上にいるを肩越しに見上げた。
でもポスターに笑顔の明るい人って書いてあったし、と言う、妙な自信に満ち溢れた笑顔は確かに明るい。
そして明るいだけじゃなくて、誰がどう見たってかわいい。
巣山はのことをごくあっさりと「かわいい子」と言った。
「かわいい?」なんて、わざわざ確認しなくたって、本当は栄口は知っていた。
長年の付き合いから生まれる贔屓目を除いたって、
がかわいい女の子であること、欠点がありはするけれど、性格だってそれなりにいい女の子であること。
の能天気な笑い顔を見ていると、なんだかもともとぐったりしていた体がさらに重くなった気がして、
栄口は前を向くと「まーがんばれば」と投げやりに言った。
「勇ちゃん疲れてる?」
「疲れてますよー、部活のあとだもん」
「練習きつい?なんか最近やせた気するよ」
「んー。ゆるくはないけどねー」
でも楽しいし。
素直に言うと、「そっか」と満足げな声が返ってきた。
もう一度、後ろに首をひねる。
は機嫌よさそうに、うれしげに、にこにこと笑っていた。
巣山の言葉を借りれば「いろいろ複雑」な気持ちがせり上がってくる。
いろいろ複雑とは言ったものの、一言で言ってしまえば簡単だ。
ずっと昔からは自分に対してはスマイル0円で、今もなおそうであることへの疑問。
お前ソレ、そんな安売りしていーの?
俺限定で。
聞いてやることができれば、楽になるんだとはわかっている。
自分もきっとも。
でも聞くことができるなら苦労はしない。
ごめんと思う。
中途半端に距離を置いてみたり、軽い憎まれ口をたたいてみたりするだけで精一杯で、と。
かと思えばいらいらするし腹が立ちもする。
なんでいつまでも俺の近くにいようとするわけいい加減どっか行けよ、と。
そして気づかないでほしいと、いちばん思う。
自分のそんな「いろいろ複雑」な気持ちに気づいて、変に気を回したり機嫌をうかがったりしないでほしい、と。
そういうを見ると、もっとごめんと思って、それと同じくらいにもっといらいらしてもっと腹が立つ。
自分のことが嫌いでいやでしょうがなくなるのに、相変わらず当たり前のようにが近くにいる。
ごめんと思って、いらいらして腹が立って、やっぱりそれに気づかないでほしい。
エンドレスだ。
猫が自分のしっぽを自分で追いかけているみたいな気持ちになる。
「おーい、勇ちゃん?」
立ったまま寝てるよ、と言いながら、が栄口の目の前で手を振った。
「あー。立ったまま寝られそうだけど、腹減ってるし」
「うんじゃあケーキいっしょに食べよう!」
ほらここで。
こういう場面で、いいよお前はもう帰れよ、とか、冷たい声で、真顔で言えたら。
問題は自分にあるのだ。結局のところ。
たとえば教科書を忘れてが自分を頼ってくれたらうれしいし当然のように貸してしまうし、
帰ってきたらメールしてと言われたらそのとおりにメールしてしまうし。
0円で誰彼構わずに振りまいていいほどの笑い顔は安っぽくない、とか、死んでも口に出せないような恥ずかしいことを、思っている。
だから栄口には、もう帰れよだなんて、言えない。
「え、お前も食べんの?太るよ?」
いつもの調子で、軽口で答えたとき、ボールがキャッチャーミットに収まる重い音が聞こえたような気がする。
見逃し三振。
バッターアウト。
「今日は特別だからいいんですー」
「は毎日特別だねえ」
猫は自分のしっぽを追うことをやめない。
やめたいのにやめられない。
ごめんと、また思う。
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