愚かで優しい
「ねー勇ちゃん、来週の水曜も練習?」と聞かれたので、あまりよくない予感はした。
「水曜は午前中だけだけど。なに、映画?」
「そー」
恐る恐る聞き返すと、大正解とばかりにがにっこり笑った。
映画ねえ、と言いながら、栄口は視線をそらす。
栄口の渋りを敏感に察知したのか、は気を迎えるような口調になった。
「ね、行こうよ、練習のあとにでもさ」
「やだよ、また眠くなるもん」
「だーいじょうぶだよ、だってポニョだよポニョ」
「ああ」
擬音語だか擬態語だかよくわからないカタカナの言葉だったけれど、栄口はそれが意味する映画がわかった。
この夏話題のアニメーション映画だ。
毎日のようにコマーシャルが流れテレビ番組でも取り上げられるので、その印象的な主題歌も、なんとなく歌えるくらいだ。
(そういえば部活の休憩中、水谷が口ずさんでいるところに田島が加わって大合唱になり、阿部と花井を怒らせていた。)
「えーだってアレ、子ども向けなんでしょ?友達が言ってたよ」
野球部のなかでいちばんに「ポニョ行ってきたよ」と言ったのは西広だった。
西広には年の離れた妹がいて、その妹といっしょに行ってきたらしい。
「どうだった?」と感想を求められた西広は、ちょっと首をかしげて、
「まあおもしろかったけど……。ジブリのなかでも小さい子向けなんじゃない?」と言った。
「妹は大喜びだったよ」とも。
「大丈夫だよー、私たちだってまだ子どもだもん!」
「そーかな……」
確か西広の妹って、幼稚園くらいじゃなかったっけ。
そんなことを思い返しながら、栄口は控えめに疑問を呈してみたが、
の「ね!行こう!レディースデーで私安くなるから、勇ちゃんの分足して割れば安く観れるよ!」
という熱のこもった言葉に、結局押し切られてしまった。
そんなに熱心に映画に行きたがっていただったので、その二日後、部活が終わったあとに「映画、やっぱりやめにしよ。」というメールが来ていて驚いた。
何事かと思い「なんで?」と返信したが、返事が来るより先に家にたどり着いてしまった。
それなら直接聞いたほうが早い。
あとで行ってみることにする。
まったく気まぐれなんだから、と思いながら、「ただいまー」と声をかけて家に入る。
「おかえりー」
台所で立ち働いていた姉が応える。
再び個別に「ただいま」を言って、ふと、居間のテレビの前で丸くなっている弟の背中に気づいた。
その背中に向けて、さらにもう一度「ただいま」を言ったが、返ってきたのは「……おかえり」という気のない反応だけだった。
声が暗い。
あれ、と栄口は思う。
そのときテレビ画面が青く染まり、例の歌が流れてきた。
「あ、ポニョ」
栄口の言葉に、弟の丸まった背中が心なしかぴくりと動いた。
「なあ、どーだった?おもしろかった?」
弟の気をひくつもりで聞いてみる。
今日、三人兄弟の上と下は、仲良くいっしょにこの映画を観に行っていたはずだ。
ところが。
「べっつに……」
弟はひどく気だるそうにぽつりと言った。
どこかの女優に勝るとも劣らないその感想に、栄口はたじろいだ。
「え……おもしろくなかったの?」
「べっつに」
「あ、そう……」
立ち込める気まずい空気に閉口して、栄口は姉に向かって弟の背中を指さしてみた。
「なにすねてんの?」のしぐさ。
サインを理解した姉はちょっと笑い、右手で「おいでおいで」をした。
近寄ってきた大きいほうの弟に、姉は小声で言った。
「それ。見てみ」
それ、と姉が示したのは、食卓の上にのっかった一枚のチラシだ。
映画館でもらったのだろうか。
海を背景に、人間とも魚ともつかない謎の赤いキャラクターが、丸い目でどこかを見つめている。
「裏」
姉に言われるままそれをひっくり返し、「あらすじのとこ」という姉の指示に従って目を動かした。
青い空に白い文字で映画のストーリーが書かれている。
さして長くもないそれを栄口は黙読していき、間もなく最後の行にいきついて
ああ、と、納得の声をもらした。
「 監督がためらわずに描く、母と子の物語」とある。
なるほどねと栄口がうなずくと、姉が苦笑いをこぼした。
「それで、ちょーっとブルーになっちゃったみたいで」
「そっか」
栄口も同じように苦笑いで返した。
この話題になると、自然とこんな表情になってしまう。
泣くとも笑うともつかないような顔。
そこでふと思い当たった。
「あのさ」
「ん?」
「それ、ひょっとしてにも言った?」
「え?ああ、うん。帰ってきたときちょうど会ったんだよ。
そしたらあの子、ちゃんにあいさつもしないで家に入っちゃってさ」
ああ、なるほど。
腑に落ち過ぎるほど腑に落ちた。
そしてまた苦笑いのような気持ちになる。
小学生の弟と同じように見なされていることへの憤りも、不愉快さもなくて。
実際の栄口が必要とするよりも、二歩も三歩も行き過ぎたの気づかいには、なんていうかもう、苦笑いを浮かべるよりない気がした。
バカだなあと、思いながら。
勝手に俺の気持ちを想像して、勝手に悲しくなって。
よそから不幸を借りてくるようなもので、本当にバカだと栄口は思う。
は、本当に。
あのさ、と栄口はまた言った。
「映画、ほかになんかおもしろそーなのやってた?」
「え?」
「が好きそーなヤツ」
姉のからかいも甘んじて受けよう。
引きずり出してでも次の水曜は二人で映画だ。
そんなふうに決意する自分も、きっと、バカだ。
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