ON/OFF
「おかえりおめでとうー!」
外はまだ灰色の天気で、雨も試合中と比べれば弱まってはいるものの、降り続いている。
だから家に入った途端、視界の明度がいきなり高くなったような気がして、栄口は思わず瞬きをした。
目の前では、元気よく出迎えてくれたが、これまた元気よくにこにこしている。
はいつも明るい色にふちどられているみたいだ。
それはたぶん、今が着ているワンピースの、柔らかなレモン色のせいだけではないと思う。
「あー。ただいま、ありがと」
でもなんでいるの、と尋ねながら靴を脱ぐ。
ついでに湿った靴下も足から引っこ抜いて、玄関に上がった。
「地鶏パーティーにご招待いただきましたー」
が歌うように答え、栄口は「ああ」と納得する。
試合後、学校に戻ってからの昼休み、携帯を開くと父からメールが届いていた。
が試合の結果を知らせたのだろう。
「初戦突破おめでとう!地鶏にケーキも追加だな」という文章のあとに、鶏とショートケーキの絵が並んでいた。
その絵文字は、栄口をとてもくすぐったい気持ちにさせた。
「すごかったね試合!すっごいドキドキしたー!」
言葉通り、興奮冷めやらぬといった感じで両手を握りしめて、
高めのトーンでしゃべりながら、は洗面所へ向かう栄口についてきた。
「そだねー。俺も最後の最後まで緊張しっぱなしだったよ」
まだちょっとドキドキしてるし。
言いながら、栄口はハンドソープの泡に包まれた両の手を握ってまた開いた。
試合が終わってから、百枝も阿部もそろって「ギリギリ」という言葉で夏の初戦を評した。
シビアな二人のこの言葉を聞いて、彼らが本気で桐青に勝てる可能性を信じて疑っていなかったことを感じ、栄口は改めて舌を巻いた。
どうせ負ける、なんて思っていたわけでは決してない。
今日、西浦のベンチでそんな気持ちをもっていたやつなんて、絶対ひとりもいなかったと断言できる。
抽選会から今日までの練習は、「どうせ」なんて後ろ向きな言葉を抱えたまま乗り切れるものではなかったから。
だから百枝も阿部も、そしてほかの部員たちも、今日桐青に勝ったことを、奇跡だなんて思っちゃいない。
勝てる確率は極めて低かったかもしれない。
でもそれはゼロなんかじゃなかった。
自分たちは、それをしっかりともぎ取ったのだ。
何かがひとつ間違えば、掴み損ねて鼻先で逃げていったかもしれなかった、小さな小さな勝利の確率。
時間が経って高揚が治まってくるとそんなことのほうを強く考えてしまう。
そして、今日の勝利に対してすごいというよりも、
もしあのときあのプレーがなかったら、あそこで失敗していたらという思いのほうが強くなる。
負けてたかもしれないんだと思うと、その可能性のほうがずっと高かったことに気付いて背筋が震える。
気がついたら断崖絶壁を歩いていた、みたいな状況で、栄口は恐怖すら感じるのに。
それを平然とした顔で、「ギリギリ」という言葉でまとめてしまえる彼らの腹の据わり具合に、だから栄口は驚嘆せずにいられない。
「でも勇ちゃんすごかったよ!いっしょに応援してた子たちもカッコよかったって言ってたし!」
「ええー?」
栄口は鏡ごしに、不審の念を込めた視線をに送った。
「いやー、今日カッコよかったのはどー見ても三橋と田島でしょ」
去年の優勝校を4点に抑えたエースと、絶体絶命の9回裏ツーアウトから決勝打を放った四番バッター。
(あの打席、不可能が可能になる瞬間を見た、と思った。)
普段は問題児コンビのくせに、こと試合となると小憎いほどに頼りになってカッコいいのだ、ヤツらは。
黄色い声援をいちばん浴びていたのは田島だろう。
試合後は三橋待ちの女の子(!)をちらほら見かけたし。
「そーかもだけど。でも勇ちゃんもすごかったよ!
スクイズの場面なんて泣きそうになっちゃったもん私!」
「あー……それはどうもー」
水道のカランを下げて、泡を洗い流すためにうつむいた。
は栄口のあがり症をよく知っている。
ほめられたことよりも、そっちのほうが栄口には決まり悪かった。
栄口がバッターボックスで感じていた手の震えとか、
喉元までせり上がってくるんじゃないかというくらいの心臓の高鳴りとか、
そういうものを、スタンドにいたが手に取るように感じていただろうと思うと、やっぱりちょっと情けないのだ。
「がんばったねえ」
鏡に映るのは、の最大限の笑顔だ。
誇らしそうな感じさえするその笑い顔に、そんなカオされてもなあと栄口は思う。
うれしくないわけではないけど、面映ゆくて素直に喜べない。
「お前知り合いなんだから巣山とか……。あと阿部だって元クラスメイトじゃん、アイツらもほめてやんなよ。泣いちゃうぞ」
「イヤ泣かないでしょ」
「うん別に泣かないだろーけど」
「ほかの人たちががんばったのもわかってるけど。今は勇ちゃんをほめてるんだよ?」
栄口の反応にの表情がちらりと曇る。
「9回のバントだってすごかったもん!すっごい緊張したでしょ?」
「あー。そりゃまあね。でも一回失敗してたし、あそこは決めなきゃヤバイって」
「だからー。決めてすごかったね、って言ってるんだってば」
タオルで手を拭きながら、栄口がやっぱり気のない返事をしたので、は不満そうな顔で言い募った。
「そりゃ田島くんはもー何あのヒトってくらいすごかったし、
三橋くんも桐青相手に三振いっぱいとって勝っちゃったし、
巣山くんも阿部くんも、ほかのヒトたちもみんなカッコよかったけど……」
はしゃべっているうちに自分で気を取り直したらしく、顔に笑いを浮かべ直した。
「でも勇ちゃんだってすごかったよ?」
両手をうしろに回して組んで、そんな小さな子どもみたいなしぐさで、
同じように子どもみたいな、ぽっかりとした無心な笑い顔になる。
そこまで無防備に感情を向けられるのはなんだか久しぶりのような気がして、栄口は不覚にもどきりとした。
こいつバイト先でもこーゆー顔で笑ってんのかな、と思うと心配になるが、でも知っている。
いくらのほほんと育ってきたでも、こういう顔は気を許した相手にしか見せない。
家族とか。
仲のいい友達とか。
あとは。
俺、とか
「勇ちゃんの試合、観に行くの久しぶりだったな」
「あー。だって高校入って公式戦は初めてだし」
ああ、それでこんなはしゃいでるんだ。
栄口は得心した。
高校生になってからは、は野球部の練習はもちろん、練習試合も観にきたことがなかった。
栄口が来るなと言ったわけでもないし、が観に行きたいと言ったこともなかった。
でも栄口はがせめて練習試合くらいには来たがっていることをわかっていたし、
は、栄口がそれを嫌がると知っていた、きっと。
今日は浜田たちがたくさんの生徒を引き連れて応援に来てくれたから、
もなんの気兼ねもなくそれに交ざれたのだ。
それがうれしかったのだろう。たぶん。
「かっこよかったよ、勇ちゃん」
にっこり笑って見上げられ、栄口はぎょっとした。
イヤ、お前、それはやり過ぎ
「そんなおだてても地鶏しか出ないよ?」
狼狽を押し殺して、茶化そうとしたのに。
「いーよ、野球してる勇ちゃん見れてうれしかったもん」
素直な口調で言い切ったかと思うと、
は「がんばったね!」と言いながら、感極まったみたいに抱きついてきた。
栄口が止める間も逃げる間もなく。
押された勢いで洗面台の縁に腰をぶつける。
ためらいもなく首に回された白い腕に、栄口は喉の奥でひゅっと息を飲んだ。
石鹸のにおいが柔らかく鼻先をかすめる。
屋根のないスタンドで応援してたからだって雨に濡れたはずだ。
帰ってきてから風呂入ったんだなと、真っ白になった頭のなかで、やけに冷静に思考が働いた。
不意に、右の肩口のところでの頭が動いた。
反射的に見下ろしてしまったの顔は、自分自身の行動に心底驚いていた。
近いところで、見開いた目で、互いにぽかんと見つめ合っていたのはほんの数秒だっただろう。
やがてはビデオの巻き戻しみたいに勢いよく、栄口から離れた。
「う、あ、ご、ごめ」
「え、や」
「ごめ、ごめんっ」
さっきまでの笑顔はどこに行ったのか、は泣き出しそうな顔になっていた。
視線のやりどころを探すように目線をあちこちにうろうろさせる。
「なんか、ちょっと、ほんと、テンションがっ、上がっちゃって……!」
もう一度ごめんとつぶやいて、はうつむいた。
髪の間からのぞく耳が赤い。
ああもう、と思いながら、栄口は小さくなっているから視線を引き剥がす。
かばんのなかから汗まみれ泥まみれになった靴下やアンダーシャツを取り出しながら、
サードランナー、サードランナーと、今日何度目になるか、この呪文を心の中で唱える。
「いーけどさ。はしゃぎ過ぎだよホント。まだ初戦突破しただけなんだから」
に背を向けて洗面台に向かい、汚れ物をこすり洗いしながら、いつもどおりの声が出てほっとした。
ほっとしたのはも同じだったらしく、沈んでいた声が少し元に戻る。
「そ、そっか。そーだよね。あ、つ、次の試合いつだっけ?」
「来週。次は平日なんだよね」
「あ、そーなんだ」
じゃー観に行けないんだ。
のぽつりとした声が、水音にまぎれてしまわずに栄口に届いた。
靴下を握る手から少しだけ力が抜けた。
溜め息を飲み込んで、またごしごしと力を入れてそれを洗う。
「でもその次はもう夏休みだし。バイト入れないようにしときなよ?」
「え……?」
「来るんだろ?」
しばらく返事がなかった。
うん、と答えた声がやたらに細くて、栄口はなんだか腹立たしい気持ちになる。
だからその分、洗いものをする手に力を込めた。
「……勇ちゃん」
あ、ヤバイ
背中から聞こえたの声に、そこにあるさびしげな甘やかさに、栄口はそう思った。
抱きつかれる前と同じ危機感。
「てゆーかさ」
無造作に、会話の主導権を奪い取る。
「ていうか」って便利な言葉だと心底思う。
「え、あ、なに?」
「俺風呂入りたいんだけど」
「あ……そ、そーだねっ」
失礼しました、ごゆっくり。
一拍置いて、やや慌てた、でもいつもと同じおどけた言葉を残して、は洗面所から出て行った。
の足音が完全に遠ざかるのを聞き届けてから、出しっぱなしだった水道を止める。
洗面台のふちに両手をついた。
鏡のほうは見ないようにした。
情けない自分の顔と顔を突き合わせるのなんてごめんだったので。
「……もー」
口に出して溜め息をつくと一気に体の力が抜けて、栄口はその場に座り込んだ。
洗面台にもたれかかって天井を仰ぐ。
濡れたままの手で顔を覆った。
に触れたのなんて、いつぶりなんだろう。
子犬の兄弟みたいにじゃれ合っていたのはいつまでだっただろう。
覚えていないから、初めても同然だ。
ふにゃりと柔らかく吸いついた、の肌。
思い出すと心臓がごとごとと音を立て始めて、慌てて首をぶんぶん振る。
やっぱりアイツは知らないんじゃないかとすら思えた。
高校に入ってからのメントレの成果で少しはましになったかもしれないけれど、
あんなふうに抱きつかれて平静でいられるほど強くないのだ、栄口の心臓は。
危なかった
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
瞑想のときと同じ要領で。
あと一秒でも長くあの状態が続いていたら、抱きしめ返すところだった。
(阿部くんを出さずにいられないのは愛ゆえ……)
|