真実の口
昼休みが始まったばかりの廊下は、たくさんの足音や話し声、笑い声に満ちていてにぎやかだ。
少子化の世のなからしいけれど、そんなことちっとも実感できないとは思う。
自販機で飲み物を買ってから、友達の横を歩きながら、通り過ぎる生徒たちをぼんやりと眺めて。
中学のときの倍もクラス数がある高校では、同じ学年だって知らない顔のほうが多い。
見たことのない顔、名前もクラスも知らない人たち。
そのなかのひとつに、不意におぼろな違和感を覚える。
次の瞬間にその違和感がぴしりと記憶を刺激して、
うわどうしよという思いが頭をめぐり、それはの歩みをよどませた。
「どしたの?」
友達に尋ねられ、「あ、え」と答えあぐねているうちに、その見知った顔はどんどん近づいてきた。
明らかにを目的にした、確信に満ちた足取りで。
おはよう、とおどけた調子で声をかけられて観念する。
スマイルはいつだって0円だ、と自分を鼓舞した。
「おはよー」
「ってもう昼だけどー」
「あはは、そうだねー」
友人たちの不思議そうな視線を頬に感じる。
早くこの場を立ち去りたいのはだって同じだったので「じゃあねー」と手を振りかけたのに、
相手に「昨日ごめんね、忙しかった?」と聞かれたものだから、
持ち上げかけていた右手は別れ際のそれではなくて、否定の意味を示す振り方になってしまった。
「あ、や、ていうか、ごめんね、寝ちゃってて。メール気づいたの、朝で」
「え、寝てたの?早くない?」
「あ、うん、なんか、爆睡しちゃってて」
「そーなんだ」
うまいんだかへたなんだかわからない嘘を、信じているのだか疑っているのだか、相手は笑った。
疲れる。
の胸のうちのつぶやきを聞き取ったかのように、「、行くよ?」と友達が声をかけてくれた。
「あ、うん。あ、じゃあね」
「え、あ、うん」
またね、と相手は言った。
反射的ににっこり笑い返して、せめてこの笑い顔がこわばっていれば、相手も気づいてくれるだろうかと思った。
こっちは相手のフルネームもきちんと覚えていない、覚える気もないということ。
先週の委員会が終わったあと、送られてきた彼からのアドレスは、まだアドレス帳に登録してもいない。
が長く息を吐き出すと、「なになに、今の男子」と友達が視線だけで振り返りながら言った。
「同中の人?」
「え?あ、ちがうちがう。なんか、同じ委員会のヒト」
「メールって?」
「え。えーと、なんか、メアド交換しない、って、言われて」
の音量は無意識に下がっていったけれど、友人たちは逆に、「おー!」と「えー!」の混じった高い声を上げた。
「すごー。もてもてじゃない?」
「えー……。もてもてなの、これ?」
「イヤだって明らかに下心ありじゃない、それ」
「そーなのかなあ……」
が溜め息混じりに、こぼすように言うと、「あんま乗り気じゃないの?」と指摘された。
「んー……。乗り気じゃないっていうか」
「楽しくないの、メール」
「んー。てゆーか、知らない人とメールするのって疲れない?」
「うわ」
「まー確かにそーかもだけど」
「それならなんで教えるのよー、メアド」
抜けてるなーはー、と友達の一人に笑われる。
「抜けてるっつーか、押しに弱い?」
「えー……。そんなことないと思うけど」
抜けてるよりは、そっちのほうが事実に近い気はする。
それでもやっぱり違うと思う。
さんって 中でしょ?
栄口から聞いたんだ、俺同じクラスだから。
話しかけてきたその一言目で、この人馬鹿なんじゃないかと、は思ったのだ。
もし彼に本当に「下心」があるのなら、
に、個体として自分の存在を覚えてほしいと思っているのなら、その苗字だけはタブーなのに。
彼はのなかで、勇ちゃんと同じクラスの人、という認識に、もうなってしまった。
最初から。
「え、じゃあひょっとしてさっきのも嘘?」
メール気づいたの朝で、ってヤツ。
嘘、とはっきり言葉にされて、肯定も否定もしかねて、結局えへへと苦笑いをしてみせると、「うわー」とまた声を上げられた。
「返さなかったの?メール」
「……はい」
「えー」
「それはちょっとかわいそ、かも。相手」
「んー……。だよね」
友達の言葉に心からうなずく。
だからさっさと飽きてくれたらいい、と思う。
興味のない人と興味のない話題。
携帯電話の小さな画面と向かい合って、当たり障りのない文章を考えて、指を動かしてボタンを押す。
その無駄な時間と労力。
それをこなせるほどの忍耐力は、少なくともにはない。
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギズ的粘り強さが、相手にありませんようにと願うばかりだ。
「てーかさ、はどうせ栄口なんでしょ?」
「え……」
無造作に言ったのは同じ中学からの友人で、は思わず勢いよく顔を上げてしまった。
「あー。幼なじみの?」
「そうそう」
「や、だから、ちがうってば」
「いつもそーやって言うけどー。明らかに仲良しじゃん、あんたたち」
否定の言葉が口のなかで消えてしまう。
当たり前じゃない、と、そう思って。
私たちはとっても仲良しで、わざわざ言われなくたって仲良しで、そしてただ、それだけだ。
「ほかのと付き合う気がないなら、はっきり言ったほうがいいんじゃない?さっきの子」
「んー……。でも、別に告られたわけじゃないのにそれはちょっと、とか思っちゃって、ね」
そう言ったあと、次の言葉が返ってくるまでの一瞬、友人たちが目混ぜをした、ような気がした。
すっかり性格悪くなっちゃってるなあ、と思う。
「そーゆーとこが押しに弱いんだってば、はー」
「あ、そなの?」
ちょっとおどけて笑ってみせる。
そうすればその場は和やかにおさまることを知っていた。
予想通りに友人たちはしょうがないなあというような表情になり、ちょうど教室に着いて、ありがたいことに話題は変わった。
昼休みの終わり際、は1年1組前の廊下を通りがかった。
友人たちにはトイレに行く、と言って出てきたけれどそれは口実だった。
きちんと説明をしたり衝突したりするのが億劫で本当のことを言わないのが嘘をつくことなら、確かに私は嘘つきかもしれないとは思う。
自分の気持ちにぴったり当てはまる言葉を探そうとして、でもその作業が面倒になって、いいや、と思うことはよくあった。
だから作文とか感想文とかは苦手だった、昔から。
喧嘩や言い争いも。
周りはそれを、ちゃんは口下手だ、だとか、おとなしくて優しい、とかいうふうに捉えてくれた。
あるいは優柔不断だとか、八方美人だとかいうふうに。
違うのに、と思う。
嘘つきと言われたらそうかもしれないけれど、優柔不断でも八方美人でもないのに、と。
そのことをいったいどれだけの人がわかっているだろう。
仲のいい友達はたくさんいるけれど、の本当のところを知っている子はきっとひとりもいない。
昼休みの廊下はやっぱりにぎやかだ。
移動教室中の生徒や、廊下で話し込んでいる生徒もいる。
教室の前を通るたびに、ドアや窓から話し声や笑い声が弾ける。
こんなにたくさん人はいるのに、とは思うのだ。
歩調をそっと緩める。
廊下の、教室から離れたほうを歩く。
開けっ放しのドアから、窓から、横目で教室を覗き込む。
いないや
すぐにわかって、ちょっと緊張していた肩を落とした。
そう、すぐわかるのだ。
どれだけたくさんの人がいたって。
「あ」
1組の教室を通り過ぎかけたところで、そんな声が聞こえた。
目線を上げる。
「あー」
巣山くんだ。
は声に出してそう言って笑った。
さっきの何某くんのときのようにことさら愛想よく振舞っているわけでも、ましてや媚を売っているわけでもないのだ。
周りから見たらそう見えるのかもしれないけれど、としては絶対に違うのだ。
巣山はちょっと首をひねって、「栄口なら7組行ってるけど」と言った。
頬に浮かんでいる笑いが苦笑いになるのが自分でわかった。
「やだな、通りがかっただけだよ」
「あ、そう?」
「うん、そう」
うなずいたに、巣山はまた少し黙って、それから「仲直りはした?」と聞いてきた。
ちょっと驚いて、は巣山を見上げた。
「え?仲直り?」
「仲直りって言わないのかもしんねーけど。こないだのヤツの」
「……あー」
こないだ、とは、が久しぶりに人前で切った啖呵のことだ。
仲直りという言葉に少しだけどきどきした。
「ごめんね?なんか、みっともないところをお見せしまして」
「イヤいーけど」
「……勇ちゃん、あのあと何か言ってた?」
ずいぶんと神妙な声になってしまった。
ほら本当は、嘘だってこんなに下手なのだ。
あんまり口に出しちゃいけないと思っているその呼び名だから、雑に発音できない。
大事に呼んでしまう、どうしても。
巣山はほとんど表情を動かさずに、ひとつ瞬きをして、それから「いや別に」とあっさり言った。
さっき芽生えたどきどきが急速にしぼむ。
さすがに溜め息はこらえた。
「そっか」
私たちはとっても仲良しで、わざわざ言われなくたって仲良しで、それなのに、喧嘩もできなくなってしまった。
はじゃあねと巣山に手を振って、1組の教室から離れた。
巣山の言った「こないだ」から、栄口と口をきいていなかった。
家も近くで学校だって同じなのに、その気になればこんなに遠ざかれるのだ。
栄口は高校に入ってから部活中心の生活を送っていて登下校もいっしょにならないし、
だってアルバイトを始めて、栄口ほどではないにしてもそれなりに忙しかった。
その気になれば。
今その気になっているのは、のほうだ。
制服を着替え終え、人がいないのをいいことに、ロッカーをばたんと乱暴に閉めた。
バイトが終わって、ロッカールームに引き上げて真っ先に開いた携帯を、
はすぐに壁に投げつけたくなったのだ。
何某くんからまたメールが来ていて、それは今度もまた明確に返事を要求する「?」で終わるメールで、
そのせいでもあるけれど、むしゃくしゃしている本当の原因はそんなことじゃない。
内容なんて何でもいい。
「英語の辞書貸してー。」でも、「今日西部勝った?」でも。
栄口からのメールがあれば、きっと何某くんからのメールなんて問題じゃなかった。
今までその気になっていなかったのはだけで、
遠ざからずにいられたのはががんばっていたからだ。
ずっとそばで大きくなってきたがびっくりしたほどの器用さで、
上手に上手に、少しずつから離れていこうとする幼なじみを、
同じくらい辛抱強く、決して鬱陶しがられないように、引き止めてきたのだ、が。
蜘蛛の糸みたいに弱い、危なっかしい細い紐を引っ張り合うような綱引きは、
が放棄してしまったらあっという間に終わってしまうのだ。
そのことが悲しかった。
名前も覚えていない同級生からのメールなんて、それと比べようもなかった。
従業員用の出入り口を押し開けながら、メールしてみようかな、とは思った。
内容なんて何でもいい。
「古典のノート見せて(>_<)」でも、「今日西部勝ったよ!(^^)」でも。
きっと栄口は笑ってくれる。
困っていても笑ってくれる。
そしてちゃんとメールを返してくれる。
次の日からはまた、仲良しでいてくれる。
でもそのあとはまた、きっと蜘蛛の糸の引っ張りっこだ。
そう思うと、メールを打ちかけたの指は止まってしまうのだ。
うなだれながら駐輪場に向かった。
かばんの中から自転車の鍵を探しながら顔を上げて、固まってしまった。
エナメルのかばんをかごに突っ込んだ見慣れた自転車。
それにまたがった栄口が、携帯をいじっていた。
勇ちゃん
飛び出しそうになった声を飲み込む。
糸を断ち切ってしまうような声が出るに違いないと、思ったからだ。
比べようがない。
いつもそれだった。
にとって、栄口は。
ほかの女の子には「親友」なる友達がいるのに、はそれを欲しいとも思わなかった。
栄口がいたから。
自分の気持ちをぴったり表すことなんて必要なかった。
言葉が足りなくたって、何も言わなくたって、栄口がわかってくれた。
世界にはこんなにたくさん人がいるけれど、に必要なのは栄口だけだった。
が優しくしたいのも、喧嘩をしたいのも、かわいいと思ってほしいのも。
息を吸い込む。
栄口が振り向いた。
「……何、してるのー」
笑って、いつも通りの声が出せた。
栄口が笑い返す。
「なんか急にモス食べたくなってさー」
「じゃー店入ればいいのに」
「それが、財布んなか40円しかないのに気づいてさ」
「急に?」
「そー。急に」
時刻はもう10時過ぎだ。
栄口は部活を終えてきたあとで、明日もまた朝練がある。
はそれを知っている。
栄口がその気に、まだなり切れていないことを知っている。
さっき、ほころびる前の栄口の表情が一瞬だけ、後悔するようにこわばったことにも気づいている。
ぜんぶ好き。
そう思った。
笑い顔も、優しいところも、意地悪も、臆病さも。
見当違いの気遣いも、勝手に感じている負い目も、それでも笑ってくれるところも、ぜんぶ。
だから結局その気になんて、はぜんぜんなれない。
店に入ってポテトを買って、それを2人でわけっこして帰りながらは考えた。
今度何某くんと学校ですれ違って、メールを返さなかったことについて何か言われたら。
携帯壊れちゃったの。
親に怒られて、しばらく新しいの買ってもらえないから、ごめんね。
そう言おうと思った。
優柔不断なんかじゃない。
もう、ずっと決めている。
美人な顔を、八方に向けられるほど持ち合わせてはいない。
嘘なんて、ぜんぜんついていない。
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