夕ごはんとケーキのあと見ていたテレビ番組のエンディングロールが流れ始めて、頃合いだなと思いながら阿部家のリビングにかかった壁時計を見上げる。
六角形の茶色いフレームをもつその時計は9時前を示していた。
温かいこたつから足を引き抜いて「じゃあそろそろお暇します」と告げると、長方形のテーブルの、私の隣の辺に座っていたシュンちゃんが「えーちゃんもー帰んの!」と残念そうな声を出す。

「うん、もー遅いからね」
「まだ9時じゃーん」
「でも明日も学校でしょ」
「そーよ、シュンちゃんもそろそろ宿題やんなきゃ」

おばさんが言うとシュンちゃんはつまらなそうに「ちぇー」と唇をとがらせて、背中を丸めて顎をテーブルにくっつけた。

ちゃん、今日はありがとねー、わざわざタカのために来てくれて」
「いえいえそんな。こちらこそすっかりごちそうになりまして」

お母さんたちによろしくね、はいおじさんにもよろしく、と暇乞いにお決まりの文句をおばさんと交わしていると、 テレビを見るでもなく寝転がってソファを占領していた隆也がのそっと起き上がった。
廊下に出て行ったかと思うと、クローゼットから私の上着を取ってきてくれたらしく「おら」とグレーのコートを手渡される。
ありがととお礼を言って受け取って、袖を通そうとしてふと気づく。

「どっか行くの?」
「は?」

私が聞いて隆也がそう答えたときには、隆也はカーキ色のダウンジャケットを着終わっていた。

「や、上着着てるから。コンビニでも行くの?」
「はあ?」

隆也が「バカかお前は」とでも言いたそうな声と顔になる。
けれど隆也はそうは言わず、代わりに「お前送ってくんだろーが」と言った。

「ええー。タカがー?」

私が思わずそう声を上げると、隆也の眉間のしわがぐっと深くなった。
その線は、普段から愛想がいいとはお世辞にも言えない隆也の顔をより険しく見せる。

「どーゆー意味だよソレは」
「別に。てゆーかいいよ別に。1人で帰れるし」
「何がいーんだよ」
「そーようちゃん。何かあったら大変だし」
「でもタカにボディガードされてもなー」
「タカでもいないよりマシよー。顔コワイから」
「あはは、それもそうかもー」

おばさんと私が笑い合う傍らで、ぶすっとした顔で突っ立っていた隆也が舌打ちをした。
シュンちゃんが体を起こして「じゃー俺も送ってく!」と元気よく言う。

「お前はくんな」
「えー。なんでー」
「来たってしゃーないだろ」
「シュンちゃん、外寒いよ?」

風邪ひいたら困るからまたね、と言いながらシュンちゃんの丸い頭を撫でた。
短い髪は硬くてちくちくしている。
ちぇー、とその日二度目の声を漏らす顔は、叱られたときのうちの犬(柴犬、雄、5歳)みたいだ。
顔の造作も髪質も声もほとんど中学のときの隆也のコピーみたいなのに、と私は思う。
不満の表し方をはじめとして中身はぜんぜん違う兄弟だ。

またね、ばいばーいと手を振るシュンちゃんとおばさんに見送られて、隆也を伴って、 私は阿部家を後にして12月の身を切るような夜の寒さへと出て行った。







「隆也も16歳かあ」
「お前ソレ何回言ってんだよ」

1時間前の会話じゃねーか、と言う隆也の声のバックでは、きんと冷えた空気に隆也と私の2人分の足音が響いている。
スニーカーの隆也のはぱたんぱたん。
パンプスの私のはかつんかつん。

隆也の指摘だとまるで私が耳にタコができるほど「隆也も16歳かあ」というセリフを口にしたみたいだけど、そんなに何度も何度も言った覚えはない。
確かに1時間ほど前、切り分けたケーキをフォークで崩していきながら、そう言いはしたけどそれだけのはずだ。
それに仮に何度も言ったところで悪いことはないはずだ。
今日は12月11日、正真正銘阿部隆也の誕生日で、彼が今日で16歳になったのは揺らぐことのない事実なのだから。
年下の幼なじみの誕生日は私にとって弟の誕生日のようなもの(弟いないけど)、否が応でも感慨を引き起こされる日なんだから、
それを2回や3回繰り返したところで許容範囲ではないか。

ポケットに手を突っ込んで、ブルゾンの襟に顎を埋めるようにして歩く隆也をちらりと見上げた。

「タカ、猫背になってるよ。姿勢悪いよ」
「だからなんだよ」
「マフラーくらいちゃんとしてきなよ。風邪ひいても知らないよ」
「ひかねーよ」

隆也のそっけない返事を受けて、私はひとつ大きく溜め息をついてみせた。
もちろん隆也に聞かせることが目的だ。
果たして私の目論見は成功して、隆也が「なんだよ」とこちらに視線をよこした。

「んーん。シュンちゃんも今はかわいーけど、16歳にもなるころにはタカみたいになっちゃうのかなーって思って」
「……俺みたいって何」
「タカだって中学んときはかわいかったのに。まあ生意気は生意気だったけど、頭なんかくりくりでさー」

タカの頭撫でるの、私好きだったのに。

あんまり愛嬌のない隆也にちょっと当てこするつもりで、軽口のつもりで言ったことだった。
ぞんざいな口のきき方をする子だけど、心持ちまでぞんざいなわけでは決してないことを私はよく知っていたから。
「うるせーな」とか「ほっとけ」とか、やっぱりかわいくない、けれど聞き慣れた言葉が返ってくると疑いもなく思っていた。
だから隆也が急に立ち止まったことにしばらく気がつかなかった。

2人分だった足音の片方がなくなったことに気づいたのは、隆也より5、6歩足を進めたときだった。

「タカ?」

振り向いてそう呼んだけれど、それでも隆也は黙ったままだった。
それに、少し離れたところから外灯が放っている弱い明かりに浮かぶ隆也の顔が本気の本気で怒っていたので私は面食らった。
彼は確かに短気だし怒りっぽい性格ではあるけれど、その辺のツボというかポイントは心得ているつもりだ。
そのポイントどころか周辺に触れた覚えさえないのに。

「え、なに、どしたの?」
「お前さ」

いつまでそーゆーこと言うわけ?
隆也の声は決して大きくはなかったけれど、その抑えたような声音が、逆に本当は大音量で怒鳴り散らしたいのだということを伝えた。

私はと言えば混乱するしかない。
こんな怒らせるようなこと、言ったっけ?
焦って考えを巡らせながらとりあえず聞いてみる。

「そーゆーことって?」
「いつまで俺のことガキ扱いすんのかって聞いてんだよ」
「ガキ扱い?」

思いもよらなかった単語にまごついて、思わずおうむ返しに聞き返してしまった。

「してないよ、そんなの」
「してんだよ、お前はムイシキかもしんねーけど!」

それがよけームカツク!
怒りが小爆発したみたいに、隆也はそう吐き捨てた。
長いこと噛んで味も香りもなくなったガムを吐き出すように、いまいましそうに。

私は唖然とする。
なるほど隆也は私より2つばかり年下で、けど基本的に昔からしっかりした子だったし、子どもなりに自尊心みたいなものももっている子だったから、 私に頼るとか甘えるとかそういうことはなかった。
確かに弟みたいに思っているけど、それは弟みたいに頼りないとか世話が焼けるとかではなく、弟みたいに親しい子という意味だ。
そりゃあちょっとはお姉さんぶってみたりおもしろがってちょっかい出してみたりしたことはあるかもしれないけど、 隆也が激怒するような      まるで積年の恨みみたいに言われるような      「ガキ扱い」をした記憶はひとつもない。

「してないってば、ガキ扱いなんて」
「じゃー弟扱いでもシュン扱いでも、なんでもいーんだよ呼び方は!」

私の単純かつ真実そのものの抗弁は即座に切って捨てられた。
隆也の言わんとするところがよくつかめない。

「何それ、どういう意味?」
「だから!俺ぁもー16なんだぞ!」

ぐんと跳ね上がった音量のまま説明が続くのかと思ったのに、隆也の口から飛び出したのはそんなわかり切ったことだったから、私はぽかんとした。
そんなこと、数分前に私が自分で言いましたけど。

「わかってるよ」
「もう中坊じゃねーし、年だってお前と2つしか違わねえんだよ!」

隆也が西浦高校に通う一年生だということは今年の春からずっと知っていることだし、 それに私と隆也の年齢差にいたってはきっと隆也がよちよち歩きの頃から承知していただろう。
なんで今更そんな、教えてもらうまでもないことを言うんだろう。
しかもなんで隆也は、私がまるで1+1が2になることも理解できない小学生であるかのように、歯がゆそうな顔をしてるんだろう。
そっちのほうこそ私をガキ扱いしてるんじゃないの、と言い返したくなる。

それでもここでムキになったらそれこそ年上の威厳にかかわる、と思って、私は心を広くもつことに決めて「だから何?」と聞いたのに、 私のおとなしやかな一言はいよいよ隆也の頭に血を上らせてしまったらしい。
ぎり、という音が私まで聞こえてきそうなほど強く歯を食いしばったかと思うと、「だから!」と隆也は焦れたような声で言った。

「俺はいつんなったらんなかで男になれんだよ」



たっぷり10秒間は、声が出なかったと思う。
隆也の言葉を噛み砕くのには、たぶんそのくらいかかった。
まず隆也の言葉を受け取って意味(表面上の)を理解するのに1秒、 その意図するところを読み取って、けれどいやいやそんなバカな、と否定するのに2秒、 そのあと隆也の怒りに満ちた強い視線を認めるのとここまでの会話を思い返すのに3秒、 やっぱりそうなのかもという気持ちが湧いてくるのに2秒、そして頭が真っ白になるのに最後の2秒。

「え……」

10秒後に取り戻した声でやっと紡げたのも、そんな意味のない音だけだった。
完全に驚き切っていたのだ。
たぶん、隆也が野球を辞めて文芸部に入って小説を書くと言い出したらこのくらいはびっくりしたんだろう、という程度には。
(隆也は国語が苦手で、特に物語文にはうんざりしていた。)

私があんまり深々と沈黙していたからだろう、隆也はふいとそっぽを向いた。

「なんか言えよ」

押し出された声は不機嫌で、その表情はふてくされていた、もっと言えばすねているみたいだった。
その声の色も表情も、物心ついてから知っていた隆也のものと何ら変わりないというのに。
それなのにこの子は私に、「告白」とやらをしているのだ。
ガキでもなく弟でもなくシュンちゃんと同じでもなく、一人の男として見てくれと。
そんな、どこの少女漫画から拾ってきたのかと思うようなことを、隆也が言っているのだ。

私は息を吐き出した。
そうせずにはいられなかったのだ。
嘆息と言ってもいいだろうその息は、白く曇ってすぐに消える。
タカ、と私が言うと、隆也の目線がすいと戻ってきた。

「おっきくなったんだねえ」

胸いっぱいの感慨が溢れて口をついて出たその言葉に、隆也の垂れ目が無防備に開かれる。
あ、しまったと思ったときには遅かった。
今の発言は隆也を逆なでする、と思ったときにはすでに隆也の怒りは頂点に達していた。
それがわかったのは、一瞬後に鬼の形相になった隆也が、4、5歩分の私たちの距離を一気に詰めて私の腕をつかんだかと思うと、 私の痛みなどお構いなしにそれを引っ張って、私はそばのわき道に引きずり込まれる羽目に陥ったからだ。

「ちょ、タカ、いたっ」

両肩をつかまれたとき塀にぶつけられると思ってとっさに首をすくめたから、後頭部強打は免れた。
ただ壁に叩きつけられた背中と腰はひどく痛かったし、隆也の両手は私の肩の骨を握り砕こうとするかのような強さだった。
衝撃に備えて思わずつぶっていた目をそろそろ開けると、案の定、閻魔さまもかくやというような隆也の視線に射すくめられる。

「てんめえ……」

地を這うような声。
隆也の怒声には免疫のあるはずの私でも、背筋がしゃんとなるような。

「ご、ごめん……」
「この期に及んでまだそーゆーこと言うか」
「ごめんってば」
「いー度胸してんじゃねえか」
「だ、だってなんか言えっていうからつい      

これもまた、言ってしまってから「あ」と思う。
ついのあとには「本音が」と続くはずだった。
隆也がそれに気づきませんようにと願ったものの、それはもちろん無駄だった。

隆也は苦虫とゴーヤとブラックコーヒーを混ぜたものを口に入れたような顔になる。
ごめん、という謝罪がもう一度、私の口から飛び出した。
隆也がすっと顔をそらして、つかまれていた肩から手がはずされる。
もういい、と言った声は押し殺し過ぎていて変にくぐもって聞こえた。

「どうせお前の眼中に入ってねえのわかってたし」
「あ、違う」

私が思わず否定すると、隆也がこちらを向く。
隆也の目が潤んではいないだろうか、私はこっそりそれを確認した。
無愛想で関心のないことには1ミリグラムの興味も示さないけど冷たい子ではない、血も涙もないという言葉はこの子には似合わない。
彼の涙もろさを私は知っている。

「違うよ、謝ったのは、そういうことじゃなくて。      気づかなくて、ごめんね」

無神経なことも言ってごめんなさい。

そう謝った。
いったい隆也がいつからそういうふうに私を思ってくれていたのかは知らないけれど、 少なくとも今日だけでも私は結構な数の鈍感発言をしてしまったし、きっとずいぶんとやるせない思いをさせただろう。

反省をしてから、私は今度は口に出さずにしみじみと考える。

そうか、隆也も人を好きになったりするんだ。
暇さえあれば野球のボールをいじっている小さな男の子だったのに。
背が高くなっても、声変わりしても、中身はそのまんまなんだと思っていたのに。
いつもべったりってわけじゃなかったけど、大きくなってからもそれなりに仲は良かったし、 隆也のことはわかっているつもりだった、私の知らない隆也なんていないと思っていた。

でもそうじゃなかったんだなあ。
隆也も16歳だもんなあ。
そりゃ恋もするよなあ。



「……それはもーいいけど」

赦免の言葉をぼそりとくれたあと、隆也はまたそっぽを向く。
少しためらうような雰囲気。
やがて「それで」と言う声が聞こえた。
疑問形の発音ではなかったけれど、聞かれていることはわかっていた。

「あのね、ちょっと待ってくれる?」
「……保留てこと?」
「まあ、タカも自分で言ってたけど、確かに隆也は私の眼中に入ってなかったからね」

すぐ横にいたから。
あるいはすぐうしろに。

「だからちょっと考えてみるよ。はっきりしなくてごめんね」
「……いーよ」

それだけでも進歩だし。
そんないじらしいことを言う。
これが、あの隆也なのだ。

笑い声を立てたつもりはなかったけれど、空気の振動が伝わったのだろうか。
私が苦笑いのようなものを顔に浮かべると隆也が「なんだよ?」と不思議そうな顔をした。

「んーん」

そう言って手を伸ばす。
そしていったいいつ振りだろう、隆也の頭を撫でた。
気のせいかもしれないけれどその髪は記憶どおりにちくちくと私の手のひらを刺したし、気のせいではなくその高さは記憶にあるよりもずっと上だった。
それでも私は隆也にいいこいいこをしてあげる。

「タカはやっぱりいい子だなって思っただけ」
「……お前、ソレわざとだろ」
「まさかー」

にっこり笑ってあげる。
ああ、これはひょっとするといわゆる小悪魔っぽい行動なのかもしれない。
でも私だって肩と背中が痛かったのだ、このくらいは許されるはずだ。

自分でそう決めて「さ、帰ろー」とうそぶき、私をにらんでいる隆也に背中を向ける。
と、次の瞬間再び腕をつかまれた。
あれ、と思って振り返ろうとした瞬間、ぐいとそれが引っ張られていた。

「……ちょっと。タカ」
「んだよ」

んだよ、ではない。

「顔が近いよ、顔が」
「お前さあ。男が頭撫でられただけで満足すると思ってんの?」

思わなく、なくはない。

「……イヤ、だって、待つって言ったじゃん」
「でも俺今日誕生日だし」
「関係ないって」
「関係なくない」
「っていうか天下の往来でこーゆーのはよくないって!ご近所の噂になるよ?
阿部さんちの隆也くんの評判もガタ落ちよ?タカはせっかくいい子なのに」
「お前俺が言ったこと絶対わかってねえだろ!」
「わかってますとも」

私はそう答えていきり立った隆也にその証拠をプレゼントした。
冷たい隆也の頬に鼻先を押し付ける。
唇も触れた、かもしれない。



「もー今度こそ帰るからね!」

呆けた顔になった隆也の腕が緩んで、私はするりとそこから逃げ出して、歩き出す。

これじゃまるで本当の小悪魔だ。
心外だ。
寒いのに顔が熱い。
別にこんなことしたいんじゃないのに、隆也のペースに巻き込まれてる気がする。
あの隆也に。

振り回されてなんかあげない。
そう決意する。
隆也がなんと言おうとも、私のほうがお姉さんなんだから。
弟みたいに親しいという気持ちが、弟みたいに愛しいに変わっても、そこのところは変わらないのだ。

そんなことを思いながら、私のかつんかつんという足音に、隆也のぱたんぱたんという足音が追いつくのを待ってゆっくり歩く。
結局のところ、私だって隆也と同じで思春期なのだ。






(「思春期パレット」というお題をいただいていました。)