雑踏に「同じ鞄」
朝からどんよりと広がった雲はそのままで、灰色がかった視界を、いろんな人たちがせわしなく通り過ぎていく。
手をつないだ親子連れ、小学校高学年くらいの男の子3人組、土曜日だというのに背広姿の男の人。
降水確率30パーセントという中途半端な天気予報だったから、傘を持っている人と持っていない人がいる。
さんざん迷った末に、私は持ってきた。
6月になったばかりの曇り空の下、土曜日の昼下がり、駅の改札口で、白地に黒い小花を散らせた傘を片手に、私は栄口くんを待っている。
遅いなあ
そう思って手持ち無沙汰に携帯を開く。
誰かを待っている時間はのろのろと過ぎる。
だいたい遅いって言ったって、約束の時間をたった3分過ぎただけなんだし。
栄口くんはとても忙しい。
野球部に入っているからだ。
去年できたばかりの西浦高校野球部は、今年も甲子園出場を目標に、夏大会に向けて練習に余念がない。
再来週には予選の抽選会が控えている。
学校の休み時間と、カレンダーに目を凝らさなければ見つからないほど少ない、
野球部の休日にしか会えない日々がやってきて、また梅雨が来て、夏が始まるんだなあ、と私は感じる。
夏を目前にした去年の今ごろ、栄口くんを好きになった。
ふたつ季節が過ぎて野球部がシーズンオフになり、その年が終わりかけるころ、栄口くんの彼女になれた。
抽選会と前後して、半年記念日がやってくる。
でも対戦相手が決まったら、そんなこと忘れちゃいそうだなあ、栄口くん
去年の6月は死ぬほど大変そうだったし。
授業中、頬杖をついてうつらうつらしている栄口くんを、よく見た。
ぼんやりと駅の外を眺めていると、ちょうど目の前を通りがかったワンピース姿のお姉さんが、持っていた薄茶色の傘を開いた。
雨が降ってきたみたいだ。
歩いている人たちがばらばらと空を見上げて、傘を差したり差さなかったりする。
そもそも傘を持っていない人は差したくても差せないし、持っていても広げるのが面倒に感じるくらいの弱い降り方らしい。
栄口くんまだかなあ、電話してみようかなあ、と思いながら、携帯のフラップを意味なく開け閉めした。
壁にもたれて、駅の出口から見える景色
水玉模様に染まっていく路面、さっきより足早に歩く人たちをぼけらっと見つめていた。
けれど私の集中力は不意に戻ってきた。
歩いている人たちの顔の判別もつかない雑踏のなかで、不意に見覚えのある色が目に飛び込んできたからだ。
光沢のある紺色のエナメルバッグ。
栄口くんと同じかばんだ。
青い傘を差した、白いワイシャツを着た男の子がさげている。
それを認識したとたんに、大きな犬を連れたおばさんとセーラー服姿の女の子2人が通りがかって、私の目の前をふさいでしまう。
慌てて背伸びをして、男の子の姿を目で探した。
男の子の後ろ姿はすぐに見つかったけれど、駅からどんどんと遠ざかっていってしまう。
え、なんで?
栄口くん、待ち合わせ場所間違えてるのかな、と考える暇もなく、私は外へ飛び出した。
頬に細かい雨が当たる。
駅に向かってくる人たち、傘を差したり差さなかったりする人たちにまぎれて、
私はなかなか走れないし、男の子はすたすたと行ってしまう。
呼んでみようか。
でも結構距離があるし、聞こえないかもしれない。
小さくなっていくエナメルバッグを見失わないようにしながら息を吸い込んで、「さ」の音のSの部分まで、たぶん発音したと思う。
そのときうしろから手首をつかまれた。
「どこ行くの!?」
びっくりして振り返ると、白いワイシャツを着て、透明のビニール傘を差した栄口くんが立っていた。
おでこにうっすらと汗をかいて、肩には紺色のエナメルバッグをさげている。
「……あれ?」
「あれじゃないよもー。急に走り出すんだもん」
びっくりしたー。
はあ、と大きく息を吐き出しながら、栄口くんは言った。
「どーかしたの?」
「あ、ごめん違う、同じかばんの人がいたから栄口くんかと思って」
立ち止まらずに行っちゃうから追いかけちゃった。
そう答えると、栄口くんは「なんだ、そーだったの」と笑って、ちょっと肩を落とした。
その肩に下がっている大きなバッグは傘からはみ出していて、小さな雨粒がいくつもいくつもくっついている。
「それにしたって慌て過ぎでしょー。何事かと思ったよ」
「ごめん」
「でもまー、それは俺が遅れたせいか」
ごめんな、と栄口くんは言う。
眉が困ったようにハの字になる。
「え、いいよいいよ。そんな言うほど遅れてないよ」
「ほんと?ならいーけど」
練習終わってからミーティングが長くなっちゃってさ、と栄口くんが言って、私はうなずいた。
とりあえず腹減った、と言う栄口くんに私も賛成して、近くのドーナツショップに入った。
降り出した雨のためか、時間帯のせいか、休日だからか、お店のなかは混んでいた。
空いていた窓側の席に向かい合って座った。
「かばん、新しいの買ってもらおうかなあ」
飲茶(ワンタン麺と中華ドッグ)とココナツをまぶしたチョコドーナツを注文した栄口くんが、ワンタンをつつきながら言った。
「え?」
「もう結構汚くなってるんだよね。1年ちょいしか使ってないのにさ」
足元に置いた大きなエナメルバッグのせいで、栄口くんはちょっと窮屈そうだ。
栄口くんと同じ時間をグラウンドで過ごしているそのバッグは、確かにあちらこちらに傷が見える。
去年はもっときれいだったのかな。
あんまり覚えていなかった。
「でも、いきなりかばん変わったらまた人違いするかも」
人違いっていうか、遠くから見て栄口くんってわからなくなるかも。
私が言うと、栄口くんはあきれたように「えー何それ」と言ってちょっと笑った。
「かばんが目印なわけ?俺」
「だって目立つから」
去年のあの日もそうだった。
雨の日の放課後で、大きなかばんをさげてる子がいる、と思ったら栄口くんだった。
同じクラスの運動部の男の子たちはたいてい同じようなエナメルバッグを持っていたから、
ちょっと近くにいくまでわからなかったんだけど。
栄口くん、と声をかけると、「あれさん、今帰り?」と傘の下から栄口くんは言った。
(あの日は置き傘のビニール傘ではなくて、いつも使っている青い傘だった。)
「うん。珍しいね、部活休み?」
「雨だしね。その代わり委員会はあったけど」
見上げるほど背が高くてがっしりしていたり、やたらと声が大きかったり、顔が怖かったりする、クラスのほかの運動部の男の子たちと違って、
細くて、優しい顔と声としゃべり方をする栄口くんは、クラスの中心人物というわけではなかったけれど、とても話しやすかった。
栄口くんていい子だよね、というのが、元1年1組女子の共通概念だった。
「練習休みになると、やっぱりうれしい?」
「んー。うれしくなくはないけど。でも夏の予選始まるしね、あんまり雨ばっかだとそれも困るよ」
雨音をBGMにぽつぽつ話しながら、駅までの道をいっしょに歩いた。
石垣の向こうにアジサイが植えてある、家の近くを通りかかったときだった。
花はまだ咲き切っていなかった。
水をたくさん含ませた青い絵の具みたいな色をした花が、少しだけほころんでいた。
そこで、栄口くんが突然、「あ」と小さく声を上げたのだった。
「え?」
立ち止まった栄口くんに合わせて私も立ち止まった。
「どしたの?」
「ん。カタツムリ」
栄口くんは一言そう言って、地面を指差した。
その言葉どおり、歩道の真ん中に、親指と人差し指で作った丸くらいのカタツムリがいた。
いた、というか、カタツムリにしてみれば道を横切っていたんだと思うけど、私の目には止まって見えた。
「あ、ほんとだ。6月って感じだねえ」
「うん。でもコイツら、ほんと歩くの遅いよね」
「歩くっていうか……歩くっていうのかな、足ないよね?カタツムリって」
「さあ……」
栄口くんはちょっと首をかしげてから、「こんなとこいたら踏みつぶされるぞー」と言いながら、カタツムリの殻の部分を摘み上げた。
そしてそっと、アジサイの葉の上に置く。
濃い緑色の上に下ろされたカタツムリには、その大移動に驚いた様子は微塵もなかった。
驚いたのはむしろ私のほうだった。
あ、と思った。
カタツムリの重みで揺れて、アジサイの葉っぱから零れた雨粒みたいに。
「さん?」
歩き出さない私を振り返って、栄口くんが不思議そうな顔をした。
慌てて足を動かして追いつく。
胸のざわざわする感じ、それは気のせいかもしれないと思いながら、私は言ってみた。
「栄口くんて優しいね」
「へ?」
栄口くんはきょとんとした。
まるで私が、なんの脈絡もない発言をしたかのように。
「だって、ふつうしないよ、さっきみたいなの」
「さっき?あー、カタツムリ?」
なんだ、というふうに、栄口くんは言った。
「しないかな。だってつぶれるとこ見るのやじゃない?」
「……まあ、それはやだけど」
「でしょ?だから別に優しいとかじゃないよ」
そう言ってから、あ、と慌てた声を出す。
「あんまり人に言わないでよ?なんかスゴイカタツムリ好きな人みたいに思われそーだから」
焦りの浮かんだ表情がおかしくて、私は笑った。
言わないよ、と受け合ってあげる。
言わないというか、きっと言えなかったと思う。
さっきの感覚は気のせいではなかった。
優しいとかじゃないと栄口くんは言ったけれど、カタツムリを葉っぱの上に下ろした手の何気なさと慎重さ。
あれが優しいでなければ、この世にほかに優しさなんてありはしない、と思ったことなんて。
スゴイ栄口くん好きな人みたいに思われそうだから。
あの日から、紺色の大きなかばんは栄口くんを見つける目印になった。
傘からはみ出て少し濡れて光っていたエナメルバッグ。
「じゃあしばらく替えられないじゃん、かばん」
まあいいけど、と言いながら栄口くんが笑う。
「でも栄口くんもうすぐ誕生日だよね。私プレゼントしよっか、新しいの」
「人違いしちゃうんでしょ」
「自分で選んだのなら大丈夫、と思う」
「何それ」
もう一度、栄口くんはそう言った。
ちょっとあきれたような、でも許されているのが確かにわかるその言葉の響き方が、私は大好き。
「それに結構高いんだよ?エナメルって」
「え、そーなの?」
「そ。だからいーよ別に」
簡単にそう片付けて、栄口くんはワンタン麺をすする。
私はポテトマフィンを持ったままもう少し粘った。
「じゃあかばんじゃなくても、プレゼント何がいい?」
「えー?なんだろ」
別に何でもいいんだけどなー、と言いながら、栄口くんの目線は考えるように天井へ向かう。
ちょっとのあいだ食べるのも置いて考えてくれたみたいだけど、返ってきた答えは「すぐ思いつかないよ」というものだった。
「えー」
「また考えとく。それよりそっちはないの?欲しいもの」
「え?」
思いがけないことを聞かれてびっくりする。
再びワンタン麺に取りかかった栄口くんを、私はぽかんと見つめた。
「なんで?私の誕生日はまだまだだよ?」
「でももーすぐ半年じゃん?」
「え」
何が、とは栄口くんは言わなかったけれど、私も何が、とは聞かなかった。
「抽選会終わったら夏大終わるまで絶対休みないから。遊んだりはできないんだけど、せっかく記念日だし、半年ってキリいいし、何かあげたいんだけど」
栄口くんが白い器から顔を上げて、私はその顔をじっと見つめる。
「……覚えてたんだ」
「へ?」
あ、デジャブ、と思った。
この顔。
優しいね、と言ったあとの、不可解そうな顔。
「忘れてるっていうか、気づかないかと思ってた」
「え、覚えてるよ」
栄口くんは当たり前のようにそう言ってから、「え、もしかして男がそういうの覚えてたらおかしいの?」と、ちょっと慌てた顔をした。
これもデジャブだ。
おかしいのはきっと私のほうだ。
一年も経つのにこんなに好きなんて。
おかしくないおかしくない、と、私は栄口くんに受け合ってあげる。
お店の外、かすかな雨はまだ降り続いていた。
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