◆7組垂れ目コンビ、崎玉偵察後



日が暮れかけている。
証明設備のないグラウンドでの練習はタイムリミットだ。

百枝の練習終了の号令、それに応え、花井のグラウンド整備を促す声にまた応え、水谷はトンボ置き場へ向かった。
たまたま近いところにいたので今日は一番乗りだ。
自分の分ともう1本手に取って、ぐるりと辺りを見回すと、帽子を取って犬みたいに頭をぶるぶる振っている阿部を見つける。
水谷は錆びついてざらざらしているトンボを引きずりながら、そっちのほうへ歩いて行った。

「あーべ、トンボあげるっ」
「ん。おー」

さんきゅ、と言って、阿部は水谷が差し出したトンボの柄を受け取る。

「どーだった、三橋」
「あー、いつもよか疲れやすくなってるみてえだけど。心配してたほどではねーかな」
「そっかあ。でも3キロだもんなあ……」

ヒデかよって話だよなあ、とつぶやきかけたが、水谷はとっさにそれを飲み込んだ。
相手が阿部だからだ。

今水谷的にいちばんきている売れっ子アイドルの名前を出しても「そんなのウチのクラスにいたっけ?」と真顔で言い放ち、 CD発売前からコマーシャルに使われてテレビで流れまくっていて、 今週で6週連続オリコンチャートトップ10入りを果たした曲を水谷の着うたで耳にして、 「なんかソレ聞いたことある曲だな」とのたまった、阿部である。

仮にもレッズのお膝元、浦和市民であるにもかかわらず、 「誰だよヒデ」なんて言葉が返ってきた日には、水谷にはどうしようもないからだ。
日本全国のサッカーファンに土下座して回らなければならない。
そんなのもちろん御免である。

「でも次、コールドにしてやれるよね」

田島いねーけど、花井が四番だしさ!
水谷が元気のいい声を出すと、阿部は「お前さ」と垂れ目を流し目にして水谷を見た。

「あんま四番四番言うなよ」
「え?」

水谷はきょとんとした。
阿部の忠告めいた言葉の意味を図りかねたからだ。

このチームの四番は、初めての練習試合からずっと田島の指定席だ。
それに文句をつけるヤツなんて野球部にはひとりもいないし、この間の桐青戦を観に来た部外者だってそうだろう。
でも花井だって十分に四番に座れる打者だと水谷は思う。
四番級が2人もいるなんて、ゼイタクなチームだよなーといつも思っているのだ。
田島が怪我で打てない以上、花井が四番に入るのは当然だ。
これに関しても誰も何も文句はないだろう。

だから水谷は昼間、3回戦のオーダーを聞いたときにわくわくしたのだ。
泉にはしゃぎ過ぎだとちくりと刺されるほど。
ウチの、もう2人目の四番打者のデビュー戦なのだから。

けれど阿部は違うのだろうか。
トンボを握り直して、先に行ってしまった阿部に追いつく。

「なんでー?」
「あいつプレッシャー弱ぇから」
「え、ウソ」

水谷は思わずトンボ置き場のほうへ視線をやった。
部でいちばん長身の花井はすぐに目に入ってくる。
やっぱりトンボを抱えて、自分がクラスメイト2人の話題にされているとも知らず、沖と何か話していた。

水谷から見れば、花井は体格もいいし力もあるし、バッティングも守備もうまいし安定しているし、 主将だって控え投手だってこなしてしまう、しかも勉強だって得意な、いわゆるデキルやつだ。
坊主だけどイケメンだし。
確かに不測の事態に慌ててしまうところは見ていておもしろいと思うけれど、 野球に関しては、いつだって堂々としていて自信に満ちて見える花井なのに。

「そーだっけ?」
「桐青ひいてきたじゃん、抽選会」
      ああ。え、でも、アレはプレッシャーのせいなの?」
「イヤそれだけじゃねーけどさ。
四月の三打席勝負と……それと球受けた印象だな。ランナー出るとコントロール微妙にばらけんだよな、アイツ」

阿部の言葉に水谷は目を丸くする。
キャッチってすげえ。
小学生並の感想だけど、そんなことを思ったからだ。
いやキャッチがというか。

「今更だけどさ。阿部ってすげえね」
「あ?何がだよ?」

そういう、自分のすごさに気づいていないところとか。
水谷は声に出さずにそう思った。

いくら捕手として打者の花井と勝負したからって、いくらバッテリーを組んだからって、 いくらクラスメイト兼チームメイトで長い時間をいっしょに過ごしてるからって、 内面のことなんて、そう簡単に理解できるもんじゃないと思う。
特にプレッシャーへの弱さなんて、花井ならきっと必死で隠そうとすることだ。
それを見抜いてしまうのだから。
阿部が、捕手というポジションに、野球に、懸命になっている証拠だと水谷は思う。

だから水谷はにへっと笑った。

「俺、阿部のそゆとこスキだなあ」
「はあ?」

気持ちわりーよ、と軽く眉をひそめられて、水谷は「ひでーよほめてんのに!」と文句を言ったが、ふにゃりとした気持ちは傷ついてはいない。
暴言や冷たい態度にいちいちへこんでいては、阿部のクラスメイトもチームメイトも務まらないということを最近ようやく学びつつある。

「でもさ、じゃあさ、次の試合で打って、自信つけばいーよね、花井」
「あー、まーな。いつまでも田島のうしろにいたんじゃもったいねーしな」
「だよね」
「コールドやんのに4番が打たなきゃカッコつかねーしなあ」

阿部の口からコールドという言葉が出て、水谷は練習前のミーティングのことを思い出す。
阿部はとてもとてもあっさりと、「帰りコンビニ寄ろうぜ」とでも言うかのように、コールドゲームを「狙おーよ」と言った。
提案というか勧誘というか、ともかくそんなセリフは中学の三年間では一度も聞いたことがなかった。
びっくりして、「マジで?」と思った。
けれど百枝や阿部の言葉を聞いているうちにだんだんと生まれてきて、練習中も今もずっと残っている、胸の奥のむずむずした感じ。
それの命じるままに、水谷は口を開いた。

「あーべ!」
「あー?」

会話が途切れたあいだに阿部はグラウンド整備に集中し出したらしく、 水谷の顔を見もしなかったし、そんな愛想のない反応しか返さなかった。
けれど水谷は気にしない。
阿部はいつもこうなのだ。
野球に関することを考えているとき、しているとき、上の空の返事しかしてくれない。
たまにむかついたり傷ついたりもするが、水谷はそれこそが阿部の阿部たる所以だと思っている。
おもしろいなあと思うし、変なやつだなあとも思うし、しょうがねえなあとも思うし、そして、すげえなあと思う。

「やろうなー、コールド!」

俺もがんばって打つ!
今度は阿部も顔を上げて水谷の顔を眺め、次に訝しそうに眉を寄せた。

「んだよ、やけに張り切ってんな」
「そりゃー張り切るよ!コールドやるんだからさ!」

阿部はわかっていない。
高校野球の投手とは思えないほど華奢で、その小さい体で、ヒットポイントがゼロになるまで投げ抜いてくれて、 体重を3キロも減らしたエースのことを、すごいと思っているのも自慢に思っているのも心配しているのも、 そいつのために何かしてやりたいと思っているのも、阿部だけではないこと。

熱を出しながらも、崩れかけながらも、三橋は去年の優勝校相手に立派に投げ抜いてくれたのだ。
次の試合、コールドくらいやってやらなければ面目が立たないではないか。



「……ふうん」

阿部は珍しいものでも見るかのように水谷を眺めてそうつぶやくと、またグラウンド整備に精を出し始めた。

「ふうんて。反応うす!言い出しっぺは阿部だろー?」
「おー。まー空回らないようにがんばれよ」
「ちょっとなんでそんなヒトゴトなのー!?」
「応援してんじゃん」
「それがヒトゴトじゃん!俺が打てなくてもいーの!?」
「よくねーよ」

短く冷静な声が返ってきたので、水谷は口をつぐんだ。
阿部はいつも通りの平然とした顔で、地面に注意を向けたまま言う。

「5回で終わらせんだからな。8番だろーが4番だろーが打席いっこでも無駄にすんなよ」
「……阿部さ」

地味にプレッシャーかけてないですか?
恐る恐るお伺いを立ててみると、阿部は何食わぬ顔で「お前は少々プレッシャーかかってたほうが打つだろ」などとうそぶいた。

「えーちょっと待ってよ!俺ちょー繊細だよ!ガッチガチになるよ!」
「そのための瞑想だろ」
「そーだけどさ!」
「高瀬からは打ったじゃん」
「あ、ソレほめてくれてる?」
「おー。期待してんぞー、桐青でヒット打ったのに7番から8番に下がった水谷クン」
「あ、バカにした!今のはバカにしたよね!」

追い詰めるのかおだてるのかけなすのか、せめてどれかひとつにしてほしい。
不満を込めてにらんでみても、それに気づかずにトンボを動かし続ける阿部の無表情な横顔に、 「阿部はやっぱりヒドイやつだよ!」と水谷は思った。