◆同中コンビ+アイちゃん
「お疲れさまー」
作業中の沈黙が、からりとした声に破られた。
顔を上げるとしっぽを振る犬のそばで、にこっと笑った妙齢の女性が立っている。
高校野球の練習用グラウンドからは、きっとおよそかけ離れた光景だよなあ、と思う。
けれどこの愛犬連れの女性が誰あろうチームの指揮官なのだからしょうがない。
「コレ差し入れ!ちょっと休憩しよ」
「あざっす」
帽子をとって礼を言う阿部に倣って、栄口も「あっす」と続いた。
手渡されたジュースを持って座り込む。
軍手をはずして直接ペットボトルを握ると、手のひらがぴりぴりした。
このマメは、ここ連日の草むしりのせいだ。
そっとキャップを開封して、一口スポーツドリンクをあおってから練習場を見渡す。
青空の下、入学式目前のグラウンドは、けれど内野しか整備されていない。
「やっぱ外野は無理っぽいね」
「ん。あー」
「がんばったのになあ」
栄口が手をグーパーしながら悔しがると、「まー部員入って人数かけりゃピッチ上がんだろ」と阿部はあっさり言った。
「まあねえ。やっぱこの広さを4人でってのはキツイか」
「あー。アイちゃんは手伝ってくんねーしなあ」
監督はベンチのほうへ引き上げていったけれど、アイちゃんのほうはまだ2人のそばに残っていた。
しっぽをぱたぱた振りながら、あぐらをかいた阿部の膝に前足をのっけている。
「なに。ほしーの?」
鼻面をペットボトルに向けてくるアイちゃんに、阿部がそんなふうに話しかける。
「働いてねーのにゴホウビはやれねえなあ」
そう言いながら阿部はアイちゃんの首元をわしわしと撫でた。
犬と会話してるよ、と思うとおかしくて、栄口は含み笑いをした。
「阿部って犬好きだよね」
「あ?」
「仲良しじゃん、アイちゃんと」
「そーか?」
「そーだよ」
「別にフツーじゃねえ?なあ?」
今度はアイちゃんの耳元をこすってやりながら、阿部は言った。
「ほら、俺に話すときよりやさしーもん」
「は?んなことねーだろ」
膝によじ登ってきたアイちゃんを腕のなかに落ち着かせながら、心から予想外のことを言われた、というような顔をする。
言葉と行動がぜんぜん一致してない。
そしてそのことに自分でまったく気づいてない。
おもしろいヤツ
中学時代一度も話をしたことがなかった同級生兼新チームメイト第1号であるところの彼を、栄口はそう思い始めている。
「家でも犬飼ってんの?」
「いねえよ。昔はいたらしいんだけどさ」
「昔?」
栄口が聞き返すと、俺がすんげえちっせえころ、という答えが返ってきた。
アイちゃんのおねだりを無視して阿部が一口ジュースを飲む。
「だから俺も覚えてねーんだけど。そいつが死んじまってから飼ってねえ」
ウチん親父が結婚する前からずっと飼ってた犬らしくてさ、と阿部は続けた。
そのぶっきらぼうな口調が、別にわざとなわけでも不機嫌なわけでも、
ましてや人見知りしているわけでもない、ということもこの数日の間で心得た。
「昔弟が友達んちで生まれたヤツ飼いたいって言ったこともあるんだけどさー。なんかイヤみてえで、却下だったな」
「へえ」
阿部の父親は知っている。
体も声も大きくて、ついでに心もでっかい、と思う。
母の葬式に参列してくれたとき、父に深々と頭を下げ、栄口の肩をその分厚い手でぎゅっとつかんだ。
断片的にしか残っていないあの日の記憶のなかで、
同情と励ましと慈しみをストレートに伝えてきたあの痛みは、数少ない鮮明なもののひとつだ。
「お前んちは?」
「へ」
「犬とか。いねーの?」
お前だってスキじゃん、アイちゃん。
当たり前のように阿部はそう言った。
これはどっちだろうなあ、と栄口はつい思案する。
1、まるで何も気を使っていない。
2、気を使ったら悪い、という気づかいの結果。
相手の言葉をこんなふうによくよく考えるようになってしまったのは、悪い癖だなと思う。
でもたぶん、栄口の家庭環境を知っているほかの友達だったら、こんなにするりと出てくる質問では、ないと思うから。
相手は悪くない。
そこにあるのは単純に、自分への思いやりなのだと思う。
そんなふうに考えられるようになったのは最近のことだけれど。
それと比べて、阿部のしゃべり方の無造作さは、なんだかかえって楽だった。
斟酌するだけ無駄、なところがいいのかもしれない。
阿部の言葉は簡潔で、その言葉の意味だけを受け取ればいい。
だから栄口は笑って、手を伸ばしてアイちゃんの頭を撫でた。
アイちゃんは目を細め、ぱたりぱたりとしっぽを揺らす。
「ウチもいないよ。俺も犬は好きだけど、面倒みらんないからねー」
「そっか」
阿部は軽くうなずいて、喉をのけぞらしてペットボトルを空けた。
ごく、ごく、と喉が鳴る音がする。
そして一息ついて手の甲で唇を拭うと言った。
「まあ、グラウンド来ればアイちゃんいるし、いいよな」
「そーだね」
春の日光を浴びたアイちゃんの毛皮は心地よく温かかった。
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