◆天然阿部くん増殖計画その1
「あべ、くん」
声が喉に絡まる。
息をするのも怖い。
「ん?」
あんまり近くで聞こえた声にびっくりして思わず視線を上げてしまう。
その瞬間に後悔する。
心臓が、鳴り過ぎて死んでしまう。
だって阿部くんの顔が、目の、前に。
「なに?」
「や、あの、えっと……」
強い視線に釘付けにされる前に目をそらした。
足元を見下ろすと、私の靴のつま先のすぐそばに阿部くんのスニーカーのつま先があって、それにますますどぎまぎしてしまう。
100メートルくらい後ろ向きにダッシュして遠ざかりたいのに、あいにく私の背中には壁が冷たく立ち塞がっている。
それに阿部くんの手が置かれた両肩は石になってしまったみたいに動かない。
「どーした?」
そう聞く阿部くんの声はちっとも普段と変わらなくて、だから私はもっともっと居たたまれなくなる。
こんなにどきどきしてるのは私だけ?
「あ、あの……か、顔がそのっ」
「カオ?」
「……ちかっ、近いんですけどっ」
「ああ。イヤそりゃそーだろ。キスすんのに」
顔近づけなきゃできねーし、と阿部くんは言う。
そりゃそうですよねでもそれはひょっとしたら無理かもしれないよ阿部くん、だって私の顔からは火が出そうだから阿部くん近づけたら火傷するかもしれない。
どくどくと脈打つ心臓は痛いほどで、ぎゅうっと縮こまりたいほど恥ずかしくて、私はうつむく角度を深くした。
短い沈黙があって、阿部くんの体が近づく気配。
気づいたときには阿部くんが私の顔をのぞきこんでいてぎょっとした。
近い、近い近い近いってば!
死んでしまう絶対死んでしまうと思ってぐるぐるしている私の目の前で、阿部くんは不思議そうな顔をする。
「なに。いや?」
「っ、え、や、では、ない、けどっ」
「じゃーしていい?」
「へ、あ、や、ちょ、ま、まま待ってっ」
「……なんで?」
心底ワケがわからないと言いたげに阿部くんが眉を寄せる。
「だ、って、その、こ、心の準備とかっ」
「んだよソレ」
野球にたとえて説明すれば阿部くんはわかってくれるかな。
野球をするときだって、いきなり試合はしないでしょ。
ランニングしてストレッチをしてキャッチボールをして、ちゃんと体をほぐして温めてから始めるでしょ。
それと同じで、私にも阿部くんの近くにいるには念入りなウォームアップが必要なのに。
こんないきなりじゃ心臓が壊れてしまう。
それをどう言えばわかってくれるだろう。
「んなモンいんの?」
「わ、私にはっ」
必要なんですとても。
だって阿部くんが大好き。
大好きで大好きで大好きで、近くにいくにはそれなりの覚悟がいる。
阿部くんは違うんだろうなと思うと、ちょっと、寂しい。
「……ふーん」
いまいち納得し切っていないような声のあと、「じゃーできたら言って」と阿部くんは言った。
「すんだろ?ココロノジュンビ」
「……へ」
「待ってっから」
恐る恐る視線を上げる。
変わってない顔と顔の距離に驚いて、反射的に後頭部を壁に密着させた。
え、阿部くん待つって言ってくれたけど、まさかそれは鼻先を突き合わせたこのままの体勢で?
なんか、言いたかったことがあんまり伝わってない気がするっていうか、阿部くんそれは待ってるって言わない気がする……!
そんなことを思っているうちに、まばたきもしない阿部くんの目線にぐいと捕まってしまった。
あ、どうしよう、目がそらせない。
少し陰になった日に焼けた肌と対照的に瞳の周りはくっきりと白い。
野球をしているときほど瞳の光は鋭くないけど、きっと阿部くんは無意識なんだろうけど、それでも私を射すくめるのには充分な強い視線だった。
だってこんなにかっこいいんだもん。
しかもこんな至近距離。
私的には、表現は悪いけど蛇ににらまれた蛙の気持ちだったんだけど、阿部くんの目にそんな私はどう映ったんだろう。
「できた?」と言って、阿部くんはちょっと首をかしげた。
「え!?」
「……まだなのかよ」
不満そうなつぶやきと同時に阿部くんの眉間が狭くなる。
え、だって、私もわかんないけど10秒も経ってないような気がするんだけど。
「や、ちょっと、まだ 」
「でももー待てねーし」
焦れたように阿部くんが言ったかと思うと、距離が一気にゼロになった。
阿部くん短気だ
阿部くんの匂い きっと気のせいだけど、阿部くんは日に焼けた土の、夏のグラウンドの匂いがする に包まれながら、
情けない私の心臓が死んでしまいませんようにと必死に願いながら、そんなことを思った。
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