◆天然阿部くん増殖計画その5



唇が離れた瞬間、水の底から浮かび上がってきたみたいに酸素を吸い込んだ。
阿部くんも同じだったみたいだ。
鼻先に阿部くんの湿った息がかかった。
自転車置き場の頼りない黄色い電気の下で、冷たい空気にそれが白く染まる。

息を整えながらぼんやりそれを眺めていると、阿部くんの顔がまた近づく。
ぴたんと頬と頬が重なって、耳元で阿部くんの声がした。

「顔熱いよな、お前」

手は冷てぇのに。

そう言って私の手を握り直す阿部くんの手は温かい。
そしてくっついた頬は冷たい。
こっちの温度差の理由はわかっている。
私の顔がほてっていて熱いから、そう感じるんだ。

手を握っているのと逆の手でぎゅうと抱きしめられて、たぶんまた頬の温度は上がったと思う。

「あ……阿部くん」
「ん?」
「あの」

そろそろ帰ろう?
そう提案してみる。

「あ、時間ヤバイ?」
「え、や、そじゃないけど……」
「じゃあもうちょい」
「え、あ、じゃ、じゃあやっぱり時間、が」
「じゃーってなんだよ」

阿部くんの眉間のしわがぎゅっと深くなる。

「イヤならイヤではっきり言えよな」
「……いやじゃない、けど……」
「じゃーいいじゃん」
「で、でも誰か来るかもしれない、し」
「来ねーよ。もーみんな帰ってるって」

阿部くんの言うとおり、自転車置き場は閑散としていて、残っている自転車は本当にまばらだ。
いつだって理路整然と持論を述べる阿部くんに、私は口では絶対に敵わない。

「で、でもほら、もしもってことも」
「そしたら見せつけてやりゃーいいだろ」
「……や、あの、そういう問題じゃなくて」
「じゃあどーゆー問題?」

ぐいと突きつけるような聞き方をされると、私はいつもさっと答えられない。
特に今みたいに阿部くんの顔が、文字通り目の前にあるときは。
うー、とか、えー、とか、私が時間稼ぎの声を出しながら視線をうろうろさせていたら、 阿部くんが不意に「あ、でもやっぱ見られたらダメだ」と言った。



      あ、わかってくれたのかな

そう思ったとたん、ぐいと壁側に押しやられる。
え、なにこの展開。
目を白黒させていると阿部くんの両手が頭のうしろに回されて、「これでヨシと」とつぶやくのが聞こえた。
黒いコートを着た阿部くんの腕に、完全包囲、された形になる。

「……なに、が、ヨシ?」
「これで誰か来てもお前の顔見えねーだろ?俺に隠れて」
「……あの、そういう問題でもなくて」
「そーゆー問題なの」

キスしてるときのカオ、かわいーから。
そう言った阿部くんの顔がまた、近くなる。

「俺以外のヤツに見られたらムカツク」



      そういう問題でも、やっぱりないんだけど……

なんかもう、いーや。
それ以上の反論をあきらめて目を閉じる。

顔色ひとつ変えず平然と愛の言葉をささやく阿部くんに、私はいつだって、絶対に敵わないのだ。