◆阿部くんお誕生日おめでとう



腕力より脚力より、いちばん向上したのは忍耐力だと思う。
これはきっと高校入学以来バッテリーを組んでいる投手のおかげだ。
アレには生半可な我慢強さじゃ付き合えない。
けれど今までどうにかこうにかやってきたから、自分の気の長さとか心の広さとかは目覚しく進歩しているはずだ。

だから今も待っている。
辛抱強く。
あぐらをかいて、腕を組み合わせて。
彼女と向かい合って。

うつむいた彼女の、膝の上で握った拳が小さく動いたので、この待ち時間もやっと終わるのかと期待する。
そのきつく握った手にいったいどんな決意が握られているのかは知らないけれど、 そろそろ自分の鍛え上げられた忍耐力にも限界がきそうだったので安心した。
何回目かの「あの」という声が聞こえたので、促すつもりで「なに」と言ってやる。
彼女が恐る恐る、うかがうように目を上げる。

「え、っと、あの」
「うん」
「……今日、誕生日だよね」
「それは5分前にも聞いた」
「う、あ、ごめん」

彼女の瞳が焦ったように揺れる。
そしてまた彼女が下を向いてしまったので、堪忍袋が内側からちくちく刺激される。

「もーなんだよ。言いたいことあんならさっさと言えよ」

彼女の肩がびくりとはねて「ごめんっ」という謝罪の言葉が再び聞こえたものの、そこから声が続かない。
困ったように視線をさまよわせる彼女を見ていると、 いっそその肩をつかんで押し倒して無理やりに口を割らせたほうが早いんじゃないかという邪な思いが頭に忍び込んできた。
けれどすぐにそれを打ち消す。
いやいや、俺はまだ待てる。

対三橋のときと同様目でもつぶってみるかと考え始めたとき、彼女がぐっと顔を上げた。
やけにきっぱりと、決然とした表情で。

「っあの!」
「おお」
「お誕生日おめでとう!」
「おわっ?」

自分でもなんだそれと思うような、素っ頓狂な声が出る。
けれどそんなことに気を払ってはいられなかった。
彼女はすてっぱちのような声で祝辞を述べたかと思うと、やっぱり破れかぶれのような勢いで自分に抱きついてきたからだ。

不意打ちとはいえ、彼女の華奢な体躯からくる衝撃ごときを受け止められないような軟弱な鍛え方はしていない。
それなのにあんなまぬけな声を上げてしまったのは、
さっきまでの彼女のためらいや逡巡から生まれるのがこんな行動だとは夢にも思わなかったからだ。
何これ何これ何だコレ。
混乱覚めやらぬうちに、ぎゅう、と自分の体を抱きしめたかと思うと、
彼女はびっくり箱のなかから飛び出してきた人形みたいにまた元の位置へ戻っていった。
そして怯えた目で自分を見上げる。

「……なに、今の」
「ごめんなさい……」

答えになってない、とつっこむ前に、彼女は真っ赤に染まった顔を手で覆った。
身も世もない、みたいに恥じ入った様子で「ごめん!ほんとにごめんね!」と謝罪を重ねる。

「イヤ、つか、マジで何があった」
「……誕生日、だから」

驚かそうと、思って。
途切れ途切れに、蚊の鳴くような声で説明しながら彼女は頭を抱えている。
そのまま小さくなって消え入ってしまいそうだった。

「それで、水谷くんに、相談したんだけ、ど」
「あー。アイツの入れ知恵?」
「はい……」

チームメイトのへにょへにょした笑い顔が頭をよぎる。
けれどそんなイメージはさっさと追い払った。
今このときそんなものは必要じゃない。

「ごめんね、ほんとにごめんひいたよね絶対ひいてるよねほんとにごめんなさい……!」

下を向いたままいつになく口早にしゃべっている彼女は、自分が彼女に近づいたことに気づかない。
かまわず彼女の頭を抱き込んだ。
彼女が自分にしたよりも、ずっとずっと強く抱きしめて、彼女の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。

「へ、あ、阿部くん?」
「お前が悪い」
「え?っわ……!」

自分の体の下敷きになった彼女が小さく声を上げた。

自分が悪いんじゃない。
自分の忍耐力や我慢強さに問題があるんじゃない。
彼女の赤くなった耳の形や、細い首筋や、泣き出しそうな目や、簡単に押し倒される体の軽さが悪い。
羞恥とか体裁とかを飲み下して自分を抱きしめた腕が、悪い。

「え、や、あべくんっ?」
「もっかいして」

ひいたりしてねえから。

そう言うと彼女は目をまん丸にした。
床と自分の体のあいだに挟まれて、あんぐり口を開ける。

「え、あ、あの」
「もっかい」

有無を言わさぬ口調で注文する。
なんたってこっちは今日の主役なのだ。
拒否権を与えるいわれはないし、何回も言うが悪いのは彼女だ。

「早く」

そう急かしたのは、逃げ場をなくして弱り切っている彼女の目に涙がにじんで、忍耐力がまたぐらぐら揺さぶられたからだ。
泣かせたい泣かせたい泣かせたい。
早くそうさせたくて彼女の肩をつかんだ手がぴりぴりした。

やがて彼女がすいと視線をそらして、観念したことの証拠にそろそろと両の腕を持ち上げた。
背中と首のうしろにそれが回されて弱く力が込められるのと同時に、重力に体を預ける。
せわしく彼女を暴いていく自分の手に彼女は何度となく震えたけれど、それだって自分のせいじゃない。
自分の鍛錬した我慢強ささえ無効にする、彼女が悪い。