◆阿部くん(非ジェントルマンなのにジェントルマン)



阿部くんは歩くのが速い。

いっしょに歩いているとき、だから私は阿部くんの隣をキープし続けるために、しゃかしゃか足を動かし続けなければいけない。
気を抜いたり、人ごみのなかを歩かなければいけなかったりすると、すぐに2、3歩うしろを歩く形になってしまう。
すると阿部くんは忽然と消えた私の姿を探して首を巡らせて、斜めうしろのほうでわたわたしている私を発見する。
そんなときの阿部くんはいつもとても不思議そうな顔をする。
今みたいに。
歩道橋の上、背広を着た男の人をよけていて遅れをとった私は、その阿部くんの表情      
まるで別の生態系の生き物の珍しい行動を見るみたいな      を見て、慌てて阿部くんの隣へ駆け寄る。

「何してんの?」
「あ、ごめんっ」

思わず謝ると阿部くんは小さく首をひねり、「まあいーけど」と言ってまた前を向いて歩き出す。

阿部くんは歩いているときよそ見をしない。
やや顎を上げ気味にして、まっすぐに前を見て歩く。
歩いているのが街の雑踏のただ中だろうと田んぼの真ん中の畦道だろうと。
だから、お店のウインドウとか歩いている人とか、夕方から夜へと変わっていく空の雲の模様だとか、
とっくに稲刈りが終わって寒々しい田んぼの様子だとかについ気を取られてしまう、道草好きの私はよけいに遅れがちになる。

ブーツのかかとのカツカツという音は、友達と歩いているときよりもテンポが速い。
そんなにヒールが高いわけじゃないけど、こないだ買ったばかりの大きめのリボンがかわいいお気に入りだけど、 今度はもっと歩きやすいのにしよう、と私は心ひそかに誓う。
どうせ阿部くん、私の足元なんて見てないんだし。
さすがに靴をはいてないとかになれば気づいてくれるのかなあ、なんてことを散漫に考えながら、ちらりと阿部くんを見る。
紺色のブルゾンのポケットに両手をつっこんで、寒そうに白い息を吐きながら歩いている阿部くん。

手を、つないで歩いてくれたらぜんぶ解決する問題だと思うんだけどなあ、なんてことは言えない。
口が裂けても、うしろ足で直立するミーアキャットを見つけた散歩中の犬のような目で見られても。

声に出さないように溜め息をついたとき、「うわっ」という阿部くんの声が聞こえて我に返る。
ぼーっと歩いているうちにまた阿部くんと数歩の距離が開いてしまっていたらしく、 阿部くんは歩道橋の階段の部分に差しかかっていた。
2段下りたところで、阿部くんは手すりにつかまって、ちょっとびっくりした顔をして立っている。
ポケットから出た手は素手のまんまで、銀色の手すりに触れたその手はきっと冷たい思いをしているに違いない。

「どしたの?」
「そこ滑った。凍ってる」

あっぶねーと顔をしかめながら阿部くんが指差した階段のいちばん上の段は、 よく見ると確かにうっすらと半透明の幕が張っている。
最近とても寒くて、毎朝毎晩のように天気予報で「道路の凍結にご注意ください」なんて呼びかけを聞くけど、こんなところも凍ってたりするんだ。

「だ、大丈夫?足、ひねったりしてない?」
「あー。平気」

阿部くんは無造作にそう言って、同じ無造作さで「ん」と言いながら私に向かって手を突き出した。
手すりをつかんでいる右手ではない、もう一方の裸の手。
私は思わず、その寒そうな手をぽかんと凝視してしまう。

「……へ?」
「危ねーぞ、んな靴だと」

足元で、白いブーツの、リボンについたフリンジがびくりと揺れた。

なんでこんな、変なタイミングでテレパシーが通じてしまうんだろう。
一瞬そう思ったけどすぐに打ち消す。
別に私の気持ちが伝わったわけじゃない。
これが阿部くん、なんだ。
今、私はきっと、木の上に巣を作るすずめを見つけたペンギンのような顔をしている。

「あ、ありがと」
「ん」

手袋をはめていたことに、半分感謝して半分残念に思う。
寒そうな阿部くんの手が握るのが冷たい私の素手じゃなくてよかったという感謝と、温度の高い阿部くんの手に触れなかった残念さと。

歩道橋を降りるあいだだけかなと思っていたけど、階段が終わってからも私の手は阿部くんの手のなかにあった。
それでも阿部くんの歩く速度は変わらなくて、私は結局やや早足で歩かなきゃいけなかったけど、遅れればすぐにわかる。
つながった手が、綱引きのロープの真ん中のしるしみたいに、それをちゃんと教えてくれた。

よかったと思う。
私と阿部くんは、たとえば犬とミーアキャット、すずめとペンギンほどかけ離れていても、ちゃんとつなげる手を持ってる。