◆理系男子っぽさを出そうとしたもの(そして失敗したもの)



「……あべ、くん?」

うしろから抱きすくめると、その行動がまったくの予想外だったのだろう、 彼女は「わっ?」と間の抜けた声を上げたあと、ひそめた音量でそう言った。
不審そうな不思議そうな響きがそこにはあった。
確かにここに至るまでの何の脈絡もなかったから、驚きもするだろう。
急にスイッチが入ったのには自分でも軽くびっくりしているくらいだし。

ぎゅう、と腕に力を込めると、彼女は今度は慌てたような声音で「え、なに?どしたの?」と言いながらちょっと身じろぎをした。
それを軽く抑え込んで抱きしめながら答える。

「別にどーもしねえけど」

うしろから見てっとなんかかわいかったから。

へ、という、やっぱりまぬけな彼女の声が、薄暗くてほこりっぽい資料室にぽつりと落ちた。


そもそも廊下で見つけた彼女についてきたのには、下心は関係ない。
社会科の授業で使った資料を返すよう頼まれたという彼女の両腕には地図やら図表やらがのっかっていて危なっかしかったから、 いちばん上にあった分厚い地図帳をひょいと取りあげて、「ひとりで平気だよ」となぜか遠慮する彼女を却下して資料室まで来たのだ。

ところが、もとの位置に資料を戻している彼女の背中を眺めているうちに、何となく触りたいという気持ちが不意に湧き上がって自分でも不審に思った。
何でだろう、とちょっとのあいだ内省して、その原因がわかったから、それがひどく納得のいくものだったから、即座に行動に移したのだ。


「なんかコレしっぽみてーだったから。ひょこひょこしてて」

ひとつに結んだ彼女の髪を、つんと引っ張った。
よくよく観察と考察を重ねた結果、そういう結論にたどりついた。
いつもより高めの位置で結われたそれが、彼女がちょこちょこ動くのに合わせて揺れて、その光景がなんだか無性にかわいかったのだ。


「あー……。阿部くん好きだもんね、犬」

彼女が小さく笑いを漏らす。
抱き込んだ体から安堵したように力が抜けて、だからこれは許可だ、と思うことにした。

「あー、ていうか、お前が好き」
「――え」

彼女の声から笑いがかき消えたのはわかったけれど、それを無視して首筋に唇を押し付ける。
とたんに彼女の体が再びこわばった。

「あ、阿部くん」

狼狽し切った彼女の声を無視して、耳まで軽く食みながらなぞる。
んん、というくぐもった声が漏れて、もっと言わせたくなる。
耳の裏に、さっと赤くなった頬に、目じりに、キスをした。

「や、やだ……っ」
「いーからじっとしてろって」

キスしかしねえから。
腕のなかでさっきよりもずっと切迫したようにもがく彼女を、逃がさないように抱きしめ直す。
華奢なうなじに噛みつくと、小さい体がひときわ大きく震えた。

「あ、やっ、阿部くんだめっ」
「もうつけちゃったし」

慌てふためいた声を出す彼女に平然と答える。
言葉通り、むき出しになっていたそこには赤黒いあざが残った。
白い肌についたその痕は鈍く目立った。

「そんなとこ見えちゃうよ……」

自分では見えないものの感触でわかるのだろう、彼女が情けない声で言った。

「しっぽほどけばいーだろ」
「しっぽじゃないってばっ」

やけくそみたいに論点のずれた抗議をする彼女がおかしくて、思わず笑った。

「なんで笑うの!」
「だってかわいーから」

そう言うと、彼女はなぜか、半分こちらに振り返っていた顔を正面に戻して、言葉を失ったかのように黙ってしまった。
腕をちょっと緩めて、こっち向いて、と耳元で言ってみる。

「……やだ」
「んでだよ。キスできねーじゃん」
「だからやなのっ」
「は?俺とキスすんのやなの?」

無理やりこっちを向かせるのは簡単だったけれど、むっとしたのでそう切り返した。
すると彼女はまた黙り込み、少しして「だってもう休み時間終わっちゃうよ」と消え入りそうな声で言った。
嫌だとは、言わなかった。

「あと4分あるし。教室には1分ありゃ着くだろ。まだ3分ある」
「3分しかないんでしょ」
「だから早くこっち向けよ。時間もったいねえ」

早く、と急かしながら、彼女の髪をついつい引っ張る。
しばらくしてから、あきらめたような溜め息がひとつ、狭い部屋に響いた。