◆純粋な好奇心10割の男
ちょっと前から、阿部くんの視線を感じていたから、なんだろう、とは思っていた。
学級日誌を書きながら、放課後の教室で。
にらむ、とかそういうんじゃなく、興味深そうな、生まれて間もない赤ちゃんが、初めて見るおもちゃをじっと見守っているような目線だった。
阿部くんはときどき、そういうまっさらな色の目をして、考えにふけるように黙り込むことがある、私といるときでも。
それがわかっていても、じーっと見つめ続けられて変なプレッシャーを感じずにはいられないんだけど。
「あのさあ」
「あ、なに?」
ようやく阿部くんが口を切ってくれてほっとする。
「触っていい?」
「……え?」
阿部くんの言葉を、一度でスムーズに理解できず、聞き返してしまうことがよくある。
このときもそうだった。
ええと、触っていい、って。
「 なに、に?」
「だから」
お前に。
阿部くんの短い返事を呑み込むのに、たっぷり10秒はかかったと思う。
しかもそれだけの時間をかけても、結局その衝撃的な答えは呑み込むどころか喉のあたりでつっかえてしまって、私は一瞬しゃべれなくなった。
手から、シャープペンがぽろりとこぼれた。
「っ、え!?わ、わた、私……!?」
「おー」
阿部くんは簡単にそう答える。
依然として阿部くんの視線を受けながら、私は真っ白になりそうな頭で必死に考えた。
「や、あの、え、っと……ど」
どこ、に?
聞いてから恥ずかしくて死にたくなった。
場所を聞いてどうするわけ、と自分に全力でつっこみたい。
自分から質問しておいて調子のいい話だけど、お願い阿部くん具体的に答えないでと祈った。
「どこって。えー」
阿部くんは一瞬虚をつかれたようにきょとんとして、ちょっと考えてから、「全体的に?」と言った。
全体的ってなに!?
私はそう叫びたかったけれど、心のなかだけに留めておいた。
「とりあえずさ、こっち来てくんねえ?」
こっちというのは、もちろん阿部くんのそば、だろう。
阿部くんは、私の席の斜め前の机に座っていた。
立ち上がれば、ほんの、1歩と半分ばかりの距離だった。
その距離は、前よりもずっと近づいた阿部くんと私のあいだの、たぶん最小の距離だった。
そこより近くには、きっと踏み入ったことはない。
そこに行ったらどうなるんだろう。
阿部くんの顔と、正方形のます目が並ぶ教室の床を見比べた。
なんの変哲もない、いつも見ている教室の床なのに、そこに行ったとたんぱかっと穴が開いて、
アリスみたいに私は落ちていくんじゃないかって気がした。
私はそこに、行きたいのかな、行きたくないのかな。
机の上ののんきな学級日誌を見つめながらそんなことを考えていると、阿部くんの溜め息と、たん、という音が聞こえた。
阿部くんが机から降りて、床に足をついた音だ。
顔を上げる。
私がためらっていた1歩と半の距離を簡単に乗り越えて、阿部くんが、すぐ横にいた。
椅子の背に右手が置かれていて、それはもうほとんど、肩を抱かれているのと同じ状態だった。
「立って」
静かな声と強い視線に、息が止まるかと思った。
椅子の足がゆっくり教室の床をひっかく音、その次の瞬間に、阿部くんの腕が背中に回されていた。
もちろん穴なんか開かない、私は落ちていったりしない。
阿部くんの制服のシャツのボタンが、文字通り、目と鼻の先にあった。
そのワイシャツの色と同じように頭が真っ白になりかける。
「おまえうっすいな」
阿部くんのやけに驚いた声が降ってきて、その声の出所の近さに、私はやっと動きを取り戻した。
一歩後ずさると、阿部くんの、やっぱり驚いている顔が見えた。
一歩どころか百歩でも千歩でも後ずさっていきたくなるのに、阿部くんの手に肩をつかまれたままだったからそれはできなかった。
「っ、え?」
「肩とかこんな薄いんだ」
信じ難い、みたいな口調で言いながら、阿部くんの右手が肩から肩甲骨のほうへ動く。
左手に背中をなぞられて、そのついでみたいにもう一度近くに抱き寄せられて、背筋が震えた。
「あ、あべ、くん 」
「やらけえし。背キンぜんぜんねーのな」
髪もやらかい。
頭を撫でる阿部くんの手も、独り言みたいなその声音も、なんだかいつもよりずっと優しくて、目の前がぐらぐら揺れる気がした。
全体的って、こういうことなのかな
肩や背中や頭だけじゃなくて、心のなかさえも撫でていくみたいな触り方。
両手のやりどころも、どこを見ていればいいのかもわからなくて、私はただただ阿部くんの胸におでこをひっつけて、
膝から崩れていかないように、一生懸命立ち続けた。
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