◆阿部くんと夏休み



氷と麦茶を突っ込んだグラスを両手に持って2階に上がり、弟の部屋の前を通り過ぎる。
ドアを開け放した自分の部屋の出入り口のところまで来ると、机にぺたんとうつ伏せになった彼女の背中が見えた。
丸くなった背中の上で、扇風機の風に吹かれるたびに髪がふわふわ揺れている。

戻ってきた自分の気配に気づく様子もなく彼女はぐんにゃりしたままだったので、 部屋の敷居をまたぎながら「こら」と声をかける。
すると彼女は電流が走ったみたいにばちっと体を起こした(勢いがよすぎて机ががたんと揺れた)。

「っ、え!?」
「さぼってんなよ。勉強やる気ねーんなら別のことやんぞ」

麦茶を机の上に置き、向かい側に腰を下ろしながらにらむと、彼女の顔があからさまにぎょっとする。

「や、やる気、ちゃんとあるよっ」
「え、どっちの?」
「勉強!」
「なんだ」

つまんねーの、とひとりごちて麦茶を一口飲む。
ついさっき入れたところなのに、グラスはもううっすら汗をかいていた。
夏の終わりの、金色のかたつむりみたいな午後だ。
やけに輝きながら、やたらのろのろと過ぎていく。

彼女の前には、自分が1階へ下りていったときと変わらず白いままの数学の課題集が広がっている。
そばに置いた教科書のページのすみっこが、人工の風を受けて小さくはためいた。

彼女が数学に難航しているあいだに自分の英語の宿題は仕上げてしまったから、 彼女の手に握られた青いシャーペンの行く先を見守ることにした。
が、その先端は所在なげに宙に浮いたまま動き出そうとしない。
ペン先から視線を移すと、彼女は眉間にしわを寄せてじっと問題をにらんでいる。
あんまり難しい顔をしているので、しかたなく助け舟を出してみた。

「もっかい説明すっか?」
「え?あ、だ、大丈夫」
「大丈夫ったって。お前さっきからずっとそこで固まってんじゃん」

わかんねーならそう言やいーだろ、と顔をしかめると、何を勘違いしたのか、彼女の表情がしゅんと沈んだ。
目線が自分の顔からはずれて、そろりと机の上に落ちる。

「ご、ごめんね」
「……お前さあ。それ、何に対して謝ってんの?」

そう聞くと、彼女の瞳が恐る恐るこちらに戻ってきた。

「え……と、私の、頭の悪さに対して……?」
「だったら謝るとこソコじゃねえよ」

狭い机の上に左の肘をついて彼女を見つめる。
彼女は小さい肩をすぼめて、いかにも居たたまれなさそうだ。
まるで自分が説教でもしているみたいで心外だ。

「わかんねーならちゃんと言え。そんな遠慮してたら何のためにいっしょにやってんのかわかんねーじゃん」
「……で、でもその、何回も同じこと言わせるの、ほんと申し訳なくて」
「申し訳ないと思って問題解けるわけじゃねーだろ。時間のムダじゃねーか」
「……はい」

彼女はうなだれて神妙に短く返事をしただけだったけれど、 心のなかではたぶん、そのあとにごめんなさいという言葉が続いているのだろうと思った。
どうしてそっちに思考が向かってしまうのか、その理由はいまだに理解できないけれど、方向性だけはつかめてきた。

「あのさあ」
「え?」

溜め息交じりに口を切ると、彼女がぱっと顔を上げた。
その顔がやっぱり、更なるダメ出しに備えている様子だったので、ことさらにはっきりと言ってやる。

「別に怒ってるわけじゃねーからな?」

覚悟にこわばっていた彼女の目がきょとんと見開かれた。

「せっかくお前いんのに勉強しかできねーのがやだから、さっさと終わらせたいだけ」
「へ……」
「俺はもー終わったし、いい加減違うことやりたい」

彼女の目がもっと丸くなって、何か言いたそうに唇が動いた。
けれどそれが途中で止まって閉じられる。
すうっと赤くなった顔がそらされて、小さな声が改めて言った。

「阿部くんそれもどうかと思う……」
「なんで。じゃーふつーに怒ったほうがいいのかよ」
「そうじゃない、けど」
「何だそれ」

意味わかんね。
素直にそう思う。

だいたいにおいて彼女はそうだ。
何につけてもぐるぐるややこしく考えたがる、それも自分にはよくわからない道筋で。
(たとえば、阿部にしてみれば触りたいから触りたいのにそれをわかってくれない。そんなだから数学だって苦手なんだと思う。)
だいぶ慣れてきたけれど今でも、めんどくさいというのと新鮮でおもしろいというのが半々くらいだ。
それでも総合的には、それ以外のたくさんの形容詞が織り交ざって結局いとしいになるから不思議だと思う。

「あの……じゃあ、もう1回お願いします」
「おー」

なんだかんだ言っても従順に、彼女が問題集を90度回転させて差し出してきたので、すいと体を乗り出して彼女と向き合った。
たぶんこうして、わからないながらにずっと向き合っていくのだと思う。