◆阿部くんとバレンタインデー



「こういうのってさ、作んのメンドーなの?」

息をつめて、はらはらしながら阿部くんの第一声を待っていた私は、やっと発せられたその言葉に少しだけ拍子抜けした。
期待していたのはそういうコメントではなかったから。

阿部くんの言う「こういうの」とは、今阿部くんがつまんでいる、昨日の夜私が焼いてきたクッキーだ。
ココア生地でチョコチップが入っている。
せっかくバレンタインデーなんだし、せっかく堂々と渡せるんだし、 ケーキとかトリュフとか華やかさおしゃれさを重視したものも考えたんだけど、 結局いちばん作り慣れていて味の保証もあるレシピを選んでしまった。
せっかくバレンタインデーなんだし、せっかく堂々と渡せるんだし、失敗したら怖い、と思って。
(ホント石橋叩く性格だよねえ、と、お母さんには笑われた。ほっといてほしい。)

「う、ううん。別にそんな大変じゃないよ」

アイスボックスにしたから型を抜く手間もかからなかった。
決して手抜きをしたわけじゃない。
だって、ハート型とかにしてひかれたらどうしよう、っていう思いが頭から離れなくて。

「ふーん」

阿部くんはそううなずいてから、またひとつクッキーを口に運んだ。
その表情はいつもと変わらなかったけど、リピートしてくれるってことは気に入ってくれたってことなのだろうか。
見守りながら私は思う。

「それなら別にバレンタインじゃなくても、毎日でも食いてーんだけど」
「……え」
「だって部活前絶対腹減るしさー」

      毎、日
私はその単語を胸のなかで大事に繰り返した。

阿部くんのちょっと不思議な、というか、どこかずれた言葉の感覚にいい加減なじんできてもいた。
だから今のセリフが、私が欲しかった言葉に阿部くんなりの(もちろん無意識の)アレンジが加えられたものなんだということはわかる。
それでも恐る恐る確認してみる。
だってせっかくバレンタインデーなんだし。

「あの。……おい、しい?」
「あー。ウマイよ。どーもな」

今ぜんぶ食っちゃうかも。
クッキーが入っている青いチェックの袋を覗き込んで、阿部くんが迷うように眉をひそめる。

お父さんの分と弟の分をもっと減らして、阿部くんにもっともっといっぱいあげればよかった。
阿部くんの言葉や表情は、私にそんな、家族に対して失礼な気持ちを抱かせるのに充分だった。

私のしたことが阿部くんにとってうれしいことになる。
それが、また私のうれしいことになる。
ぐるぐる回って結局、私にとっての「うれしい」に戻ってきてしまう。
せっかく、バレンタインデーなのに。



「そっちは誰の?」
「え!?」

にやけてしまいそうでうずうずする口元を隠していた手を、ぱっとはずした。
阿部くんがそっち、と言ったのは、あと2人分のクッキーが入っている紙袋だ。

「あ、ええと、これは一応、水谷くんと花井くんの分なんだけど」
「は?」

阿部くんの反応が、予想外に大きくてびっくりした。
ぴしりと視線があわさって、詰問、みたいな口調で「なんでアイツら?」と聞かれる。

「え……だって水谷くんは、CDとかDVDとか貸してもらってるし」
「お前だってアイツに貸してやってんじゃん」
「え、あ、そうだけど」
「で水谷はともかく、お前花井と接点なんてねーだろ」
「う、うん、でも、水谷くんにあげるなら、花井くんにもあげなきゃかなって」
「なんで」
「え……ええと、野球部、だから?」
「んなこと言ったら全員分用意しなきゃだろーが」

それは、そうかもしれないけど。
水谷くんと花井くんには一応、クラスメイトっていう肩書があるんだけど。
どうしよう、野球部全員にあげるか、そうでなければ誰にもあげないほうがいいんだろうか。
私がそう迷っていると、阿部くんが「貸して」と言った。

「え?」
「そっちの2つ。俺が食う。いーだろ?」
「え?え、あ、うん……」

阿部くんの顔がなぜか少し不機嫌そうだったので、 水谷くんと花井くんのところへ行くはずだった袋を言われるままに阿部くんに手渡した。
阿部くんは袋を受け取ってから、もともと自分のものだったクッキーをもう1個口に入れた。

阿部くんてこんな食い意地張ってる人だっけ。
阿部くんがクッキーを噛み砕く、ざくざくという音を聞きながら考える。
やっぱり成長期だし、部活大変だからお腹減るのかな、とそんなふうに思って、納得しようとした。
でもそれにしては何か阿部くん、怒っているような。

不穏な角度を作っている阿部くんの眉をそっとうかがっていると、その下の目がじろりと私をとらえた。
思わず背筋を伸ばした私に、「そもそもさあ」と阿部くんは言った。

「えっ?」
「バレンタインって好きなヤツにチョコやる日なんだろ」
「へ?あ、うん、そーだね」
「ならお前は俺にだけくれればいーじゃん」

お前が好きなの俺だろ?

ぽっかりと、口が開いてしまった。
遅れて熱が顔に上ってくる。
それを隠すために私は急いでそっぽを向かなければならなかった。

      間違えた……!

阿部くんの言葉の感覚は、ちょっと不思議なわけでもなく、どこかずれているわけでもなく、アレンジされているわけでもなく、
ただ単にひたすらシンプル、飾り気ゼロで、ストレートなだけだった。
だからこんなに私の胸にぐっさり刺さって、いつだってとっさに反応できないんだ。

ざくざくという無造作な音が不意に止んだ。

「んだよ。ちげーのかよ」
「え、ち、違      

顔を上げてたちまち後悔した。
がっちりと視線を捕まえられてしまうと、私は蚊が鳴くよりも情けない声で続けるしかなくなるのだ。

「……いません」
「ならいーけど」

即答しねーからからビックリしたじゃん、と言われてごめんねと謝った。

せっかくバレンタインデーなのに、とまた思った。
いつでも直球勝負の阿部くんと違って、大好きの一言も堂々と言えない甲斐性なしでごめんね。
小心者の私の気持ちは、渡したお菓子から感じ取ってもらうしかない。
というか、そろそろいい加減わかってほしい。

阿部くんの直球を受け取るたびに、ずしんと衝撃を感じて、
その衝撃にはいつまでたっても免疫ができなくて、呼吸困難になるくらい。

大好きなんですってば。