◆やきもちを妬かれてみる



湿気とパウダーシートの匂いがこもった体育館の女子更衣室で、部活仲間たちを見送ってしまうととたんに手持ち無沙汰になった。
無造作に置かれているパイプ椅子にどさりと腰かけて、携帯を開く。
ディスプレイに表示された時刻を見て、あと1時間ばかりもこうしているのかと思うとさすがに気がめいった。
机はないけど、宿題でもしてたほうが有意義かなあ、なんてことを考えてはみたけど、
そんなまじめなこと、間違いなく実行に移せそうもない。
おお、超ムイミな時間だわ、と思いながら椅子のうえでそっくり返っていると、 開け放した小さい窓の外、雨音に混じって聞き覚えのある話し声が聞こえてきた。

椅子の上で膝立ちになって、普通の窓より高いところにある(そりゃそうだ、更衣室なんだから)窓から外を見る。
思ったとおり野球部の連中だったので、私は「おーいたじまー」と声をかけてみた。
田島がぱっとこっちに気づき、その隣の泉もこっちを向いて言った。

「お前何やってんの?そこ女子更衣室じゃん、捕まんぞ」
「ほかに誰か使用中ー?そんなら俺も入りてー!」
「もー帰れよあんたら」

ぱしゃぱしゃと濡れた足音を立てながら、奴らは窓の下にやってきた。
三橋くんは来ていいものかどうか迷ってるみたいに、こっちとほかの野球部の子たちとをきょときょと見比べていたけど、 結局おずおずと田島の背中にくっついてきた。
しんがりを歩いていたいちばん背の高い子(確か花井くんだ、キャプテンの)の「先行ってんぞー」という声に、田島が「おー」と手を振り返した。

「言われなくても帰る途中だよ」
「もう終わり?早くない?」

野球部は毎日夜9時上がりらしく、この時間は西浦の部活のなかでも最も遅い。
ウチの部は定刻終わりだったけど、奴らにしてみれば、この時間帯に帰れるってのはかなりの早上がりに違いない。
泉が手に持っていた傘をちょっと上げてみせた。

「この天気だしな。早じまい」
「へー。よかったじゃん」
「で、お前は何してんの。部活終わったんだろ?」
「傘忘れてきちゃってさー」

帰りたくても帰れない状態なんだよ、と説明すると、泉がさも馬鹿にしたような顔をした。

「マヌケだな。置き傘くらいしとけよ」
「うっさいな」
「つーか部室に置き傘とかねーの?」
「あのね、一年で部室堂々と使えてんのなんて、君たちくらいだからね」
「ふーん。で、どーすんの?親待ち?」
「そー。でもウチの親、帰んの遅いからさー。あと1時間は待たなきゃなんだよね」
「げー、1時間もー?」

田島が考えただけでうんざり、という顔をして、それを受けて三橋くんも気の毒そうな顔になった。
三橋くんはあんまり口をきかないけど、目で口ほどに物を言ってる感じがいつもする。
ちなみに、目よりも口ばっかり達者な泉の「そりゃゴシューショーサマ」というむかつく言葉は無視した。

「なんかその辺の傘借りて帰れば?」
「田島くんそれはパクリですよ」
「そんじゃー泉と相合傘れば?」

いたって無邪気に発せられた田島のこのセリフに、私と泉の「はあ?」という声がかぶった。

「なんでそこで泉なの」
「なんだ、三橋とのほーがいいのか?」
「へっ!?」
「やめろ田島、三橋の将来にキズがつく」
「もーマジで帰れ泉は」

私がそう言うと田島はおかしそうに笑って、私のさっきの質問には答えなかった。
田島はいいヤツなんだけど、ときどきこんなふうに、会話がうまくつながらない。

「にしてもお前寂しいやつだなー。いっしょに待ってくれたりコンビニで傘買ってきてくれる友達いねーのかよ」
「だって悪いじゃん、雨降ってるし、誰だってさっさと帰りたいでしょうよ。家の方向が同じ子、ウチの部にいないし」
「まーそりゃ、タダならな」

泉はそううそぶいたかと思うと、私に向かって傘を持っていない左手をホレと突き出した。

「なに、その手」
「630円よこせ」
「なんでいきなり恐喝?」
「傘買ってきてやるっつってんだよ」

ああ、と納得してから、コイツ人助けするときも横柄だな、と思ってちょっとあきれる。
泉だって別にフツーにいいヤツなのに、態度が悪いのが玉にキズだ。
そんなことを考えながら財布を探っていて、ふと気づいた。

「……え、なんで630円?500円ありゃ買えるじゃん、傘」

税込みでも525円でしょ、と私が指摘すると、「誰がお前のためにタダ働くんだよ」と泉はぬかした。
      前言撤回だ。

「ええー、金取るわけ?トモダチガイないなー」
「イヤならいんだぞ。105円払うか1時間待つか、好きなほう選べよ」
「……消費税まできっちりとるとこがセコイよ」

10円玉3枚が見つからなかったので、500円玉と100円玉と50円玉を、それぞれ1枚ずつ泉の手のひらに落とした。

「いーなー泉だけ小遣いもらってー!」
「小遣いじゃねえよ、バイト代だよ」
「ホントに傘買って戻ってきてよ?そのまま帰ったらマジ訴えるからね」
「わってるよ」

じゃー待ってろよ、と泉は言って、3人の背中は雨降りの闇に消えていった。



10分ばかりの待ち時間のあと、約束というか契約どおり戻ってきた泉と、雨のなかを家に向かってだらだらと歩いた。
ぺったりとした暗闇を、泉の買ってきたビニール傘の白い柄を握って歩きながら、 「田島と三橋くんは?」と聞いたら「コンビニ」という短い答えが返ってきた。

「ほかのヤツらもまだいたから、テキトーにだべってんじゃねえの?」
「なんて言って抜けてきたの、泉は」
「なんてってフツーに。友達待たせてるからつって」

友達とは言っても、深く考えもせず声をかけてしまったから、友達が私だってこともばれてるんじゃないだろうか。
まずかったかな、と言うと、何が、と泉が言った。

「変なふうに誤解されない?」
「別に平気だろ。野球部のヤツらはなんつーか、一部除いてそーゆー話につっこんでこねーから」
「へー。奥ゆかしんだ、さすが高校球児」

でもそうじゃない一部はどうすんの、と聞いたら「ねじ伏せる」という、奥ゆかしいとはおよそかけ離れた言葉が聞こえてきた。
どうも空耳ではなさそうなので、「一部」の人の無事をこっそり祈る。

「さっきの田島のだって別に、深い意味とかねーみたいだぞ」

さっきのって相合傘のことか、とすぐに見当がついた。

「だってお前ら仲良しじゃん、とか言われたし」

仲良し。
あまりにもほのぼのとしたその語感がおかしかった。
私たちの殺伐とした会話をよく知ってるくせに、そんな言葉しか出てこない田島に、育ちのよさみたいなものを感じる。
たまに会話が通じなくなるのは、田島の思考があまりにシンプルでまっすぐだからかもしれない。

「世の中みんな田島みたいだったらいいだろうねえ」
「いやソレ成り立たねーだろ、いろいろ」
「……そうかも」

泉のセリフに、やけに重い実感が込められていたので私は笑った。

「田島といえばさ、泉にお金渡してから思ったんだけど。
田島んちまで傘入れてもらって、田島んとこで傘借りて帰るのがいちばん合理的だった気がするんだよね」

田島の家は学校から近いし、距離はともかく帰る方向は同じだ。
泉の家も、まあ方向は同じだけど、コンビニに行ってまた学校に帰ってきて、っていう手間は省けたはずだ。
泉は「あー」と、なんだかかったるそうな間延びした声を出した。

「なんかソレは俺がムカツクから却下」
「は?」

ムカツクって何それ。
量りかねて泉の横顔をうかがうと、泉の視線がついとこっちに流れてきた。
だいたいお前さ、と、馬鹿にしたような声音で泉は言った。

「なんでさっき田島だけ呼んだんだよ?」
「へ?さっきって、ああ、や、別に深い意味ないよ。田島呼べば泉たちも来ると思ったから」
「その発想が気に食わねー」

ひとまとめにすんな、と、やけに居丈高に言い放つと、泉はまたふいと目線を正面に戻した。
若干不機嫌そうな横顔。
おいおい、と私は思う。

「……ちょっと。泉くん」
「んだよ」
「ヤキモチとかそーゆーのはやめようよ」

それは危険信号だよ、友情的に。
私はわりと本気でそう忠告したんだけど、泉に「うぬぼれんな」と再びにらまれる羽目になった。

「俺は単に自分のモン人に横取りされんのが気に入らねーだけだよ」

昔っからさんざんアニキに取り上げられてきたからな、と、恨めしそうな目つきをする。

「食いもんにしろおもちゃにしろ」
「私はおもちゃか」
「似たよーなモンだろ」
「……私絶対泉の彼女にはなりたくないわー」
「奇遇だな、俺も別にお前んこと彼女にしたいわけじゃねーよ」

ただムカツクもんはムカツクんだからしょーがねーだろ、と、泉がふてくされた声を出して、カルピスを飲んだ。
空中をにらみつけている泉の目は心底いまいましそうで、人の金で買ったもんそんな嫌そうな顔して飲むなよ、と言いたくなる。
そして、かわいいんだかかわいくないんだかわからないヤツだなあ、と思う。
友達同士の間柄で嫉妬なんて感じてる泉も泉だけど、それを満更でもなく思ってる私も私だ。

「わかったよ、ヤキモチくらい勘弁したげるよ」

仲良しだから。
ぱたぱた降り続ける雨に向かってつぶやいたそのかわいい単語は、
存外なめらかに素直に声にのせることができて自分でもちょっと驚いた。