◆花井家、主将になった日
「ただいまー」
ドアの開く音と長男の低い声が聞こえて、母は「はーいおかえりー」と答えながら時計をちらりと見た。
7時半少し過ぎ、娘たちの「先に食べてようよー」の声をねじ伏せて待っていた甲斐があった。
久々に息子を交えての食卓になりそうだ。
なんだかんだで母の積年の希望通りに野球部に入った高校生の長男はゴールデンウイーク中はずっと合宿で、
最終日の今日も一日部活だった。
高校球児はこうでなきゃねーとわくわくする一方で、
近年反抗期気味の長男と共有する時間がさらに少なくなってしまうのは、正直少し寂しいような気もしている。
「あーやっと帰ってきたー」
「お腹すいたー」
「ハイハイ。じゃーお箸並べて。あとお茶碗ふいて」
えさを待つひな鳥の二対みたいな、長女で次女まとめて末っ子の双子たちに仕事を言いつけ、
母はガスコンロをひねって味噌汁を温め直し始めた。
すると、長男の長身がのっそりと居間に現れた。
「お兄ちゃんおかえりー」
「おかえり!」
「あーただいまー。風呂わいてる?」
「えーだめ!もーお腹すいた!」
「もう待てない!」
「イヤ別に待たなくていーし」
先食ってれば、と言って、息子は食事よりも入浴を優先したそうな顔をする。
一日目一杯体を動かしてきたあとだから無理もないだろう。
「じゃーちゃっちゃと入ってきなさい」
「えー!私もー待たないよ?」
「私もー!」
「いーわよ、アンタたちは先食べてて」
無口になった長男の分まで、双子たちはぴいちくぱあちく、まったくよくしゃべってくれる。
「あ、あのさ」
「んー?」
娘たちのお椀に味噌汁を注ぎながら、母は返事をした。
長男から「ちょっと」だの「あのさあ」だの、長年連れ添った夫婦みたいな呼ばれ方をするのにはもう慣れている。
(そういえばダンナからも、もう何年も名前で呼ばれてないし。)
「俺、今日から主将やることになってさ」
「え。あらホント?」
聞き返して、母はあすかのお椀を置いた。
高いところにある息子の顔はいかにも面倒くさそうな表情を浮かべていたが、母は「へえー!」と声を上げた。
喜びの声だ。
「あらそー!」
「……あんだよ」
「だーって、野球部入らないかもとか言ってた人が。なんだかんだでやる気出てきたんだ?」
にんまりと笑ってみせると「うっせーな」と顔をしかめる。
「え、お兄ちゃんまたキャプテン?」
「やるじゃーん」
「ねえ。スゴイよねー」
「うっせえって!」
双子たちの讃辞に便乗すると予想通り噛みつかれたが、母はそんなことでひるんだりしない。
照れ隠しだということは百も承知なので。
「それでー?おかーさまになんのお願いかしら、キャプテン」
息子はやってられないとばかりに大っぴらに嫌な顔をしたが、やがてぶっきらぼうに、「保護者会とか、やってくんない?」と言った。
予想外の願い出に母は目を丸くする。
「保護者会?」
「あー。今、部のカネ、ほとんどカントクが出してくれてんだよ」
「ええ?学校から出ないの?」
「いや、そりゃちょっとは出てんだろうけどさ。たかが知れてんじゃん。公立の新設だし」
「んー、まあ、そうでしょうねえ……。監督さんて何してる人なんだっけ?」
若いんだったわよね、と母は聞いた。
高校の野球部の監督が女性だと息子から聞かされたときは驚いたが、それ以上のことを詮索しても、
彼は軟式時代の卒業生だということ以外に口を割らなかったのだ。
(女子レスリングにでも出りゃあいいんだ、と言っていたのは記憶している。)
「バイト。清掃会社とか工事現場とか、基本肉体労働だって」
「え!まさかそのお金を野球部に使ってくれてるの?」
「らしーよ」
ボールやグローブは消耗品だし、水分や栄養の補給は常に必要だ。
試合に行くには移動のための交通費だってかかる。
数え立てたあと、息子はかばんから小さな箱を取り出して付け加えた。
「今日だってコレ、プロテイン。部員10人分、自腹で買ってくるしさ」
「あら。そりゃー大変だわ」
いくら卒業生が好きでしてくれていることとはいえ、任せ切りにはしておけない。
新設校で一年生しか部員がいないのだから、保護者会も一から始めなくてはいけないのだ。
うっかりしていた。
「部費とかは俺らで相談して集めよーかと思ってるけど、それだけじゃ足りないとこも出てくるだろうし」
「そーね、わかった。じゃー近いうちに、部の子たちの家の電話番号と電話しても大丈夫な時間帯、聞いてきてよ。お母さん連絡取ってみるから」
「ん」
母がてきぱき言うと、息子は短く了解の返事をした。
連絡がついたら一度集まりを開かなくては。
10人くらいならなんとか全員都合のつく日があるだろうか。
PTAのほうのこともあるし、また忙しくなりそうだ。
くるくると頭を働かせていた母がふと気づくと、さっさと風呂場に行ってしまうのかと思った息子が、まだそこに立っている。
何か言いたくて言いかねている顔つきだ。
「どしたの。お風呂行くんでしょ?」
「あー……イヤ」
息子は右に左に視線をうろつかせ、「何よ」と母に急かされて、観念したように目をつむった。
「……ヨロシク頼みます。3年間」
母に、というよりも、自分の足元に話しかけるようにぼそりと言ったかと思うと、
息子は腹を立てたようにさっさとその場を退出してしまった。
あらまあ、と母は呆気にとられる。
そして笑う。
そんなに照れくさいなら、あんなに改まって言わずに、冗談めかして軽く言ってしまえばいいのに。
この手の生真面目さを、いったいあの子はどこで拾って身につけてきたのだろう。
少なくとも母の胎内にあったものではない、あれは。
胸の内がくすぐったくなって、また笑う。
息子の大きな背中が消えていった廊下に向かって声を張り上げる。
「その代わり甲子園行ってよ、梓!」
「うっせ!」
返ってきたのは、そんなかわいくない答えだった。
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