◆水谷家、文貴誕生日



遠くから音が聞こえる、と思って、ほとんど反射的に枕元を手で探る。
つかんだ携帯の手触りに目覚めが訪れた。
布団に潜り込み直しながら携帯を開いてボタンを押してアラーム音を切った。

1月4日、新年4日目で、練習開きで、そんで誕生日おめでとう俺。

ぼけらっとした頭でそこまで考えて、勢いよく跳ね起きる。
16回目の誕生日、部活開き、そして誕生日!
寝起き10秒で、彼の頭は祝福受付モードに切り替わった。

旧年の練習締めのときにも元旦の初詣のときにもさんざん宣伝したし、きっとたくさん祝ってもらえるはずだ。
その幸福な予感に眠気も寒さも吹き飛ぶ。
いそいそと着替えを済ませ、スリッパを引っかけて部屋を出た。

階段を下りながら、もうそこまで甘い匂いが漂ってきていた。
ああそっか、今朝はホットケーキって言ってたっけ。
そう思い出して、彼の幸せメーターはぐんと上がった。

「おっはよー」

リズムをつけて言いながら入った明るいリビングは、すでに暖房が効いていた。
暖かく甘い空気を胸いっぱいに吸い込む。

「あ、おはよー。えらい、自分で起きれたじゃなーい」
「まーねー」
「でもそっか、今日で16歳だもんねー」

ちょっとはしっかりしてくんなきゃ困るか、と母が茶化すように言った。

「ちょっとー、いきなりお説教?」
「ハイハイ、お誕生日おめでとうー」

歌うように母は言い、食卓の上のホットプレート(昨日の夕食がお好み焼きだったのだ)の上でホットケーキを引っくり返した。
きつね色のなめらかな表面がのぞく。

「ちょーいい匂い!」
「もー焼けるよー。顔洗っといでー」
「ほーい。あ、ねーケーキなんだけどさ、やっぱホールじゃなくていーよ」

今年はガトーショコラにしようかな、と母は言っていたのだが、
そして生クリームと絶妙のコンビネーションを奏でるそのほろ苦いケーキは大好物のひとつなのだが、彼はそれの辞退を申し出た。

「え?いらないの、ケーキ」
「ちがうよー。でもなんてーの、小分けにできるヤツがいーな。明日の練習に持っていきたいんだー」
「明日?」
「うん、今日祝ってもらうからさ、お返し!」

目を丸くして聞いていた母の顔が笑み崩れる。

「えー、まだお祝いもしてもらってないのに、もうお返しのこと考えてんのー?」
「いーんだよ、アイツら絶対祝ってくれるから!」

断言してみせると、母はまた「ハイハイ」と言ってうなずいた。

「じゃーブラウニーにしよっかなあ。いい?」
「うん、よろしくー」

そう言って、リビングを後に洗面所へ向かう。
洗面所は寒いし水道から出てくる水はしばらくは冷たいけど、すぐに湯が出るようになる。
暖かいリビングに戻れば、焼きたてのホットケーキが待っている。
マーガリンとメープルシロップがじんわり染み込んだ、ふわふわなホットケーキ。
もうそれだけですでに幸福だった。

16歳の彼の幸せもこんなふうにして、水谷家のリビングからスタートする。