◆三橋家、レンレン誕生日



ゼミ室のドアを開けようと鍵を鍵穴につっこむと、中から「あ、開いてるよー」という声が聞こえた。
おや、と思い、「しつれーします」とあいさつしながらドアノブをひねった。

ドアを開けると、ものがぎっしりと詰まった小さなゼミ室の全景が見える。
入ってすぐ左に小さい流しと食器棚、電気ポットと冷蔵庫がある。
そこ以外の壁には、本やら雑誌やらが詰め込まれた本棚が並べられていて(ここにいるとき地震がきたら間違いなく本に埋もれて死ぬ、といつも思う)、 中央にどかんと置いた机の上も、教員採用試験前の四年生が連日試験勉強に使用しているため、問題集が山積みになっている。
その机の奥、書類ケースや小さなテレビを置いた棚の向こう側にあるデスクで、三橋先生はノートパソコンを広げていた。

「こんにちはー」
「こんにちは、土曜なのに授業?」
「そっす」

制度的には週休ニ日制になったものの、授業数はやはり足りないらしい。
卒業に直接関係しない資格関係の授業は土曜日に回されてしまい、今年度から土曜日も学校に来なくてはいけなくなった。
(4年生なのに!)
7月の試験までもう時間がないし、せっかく学校に来るならゼミ室で勉強していこうと思って、土曜日の私は学校に缶詰だ。
家だとやる気出ないし。

我がゼミの三橋先生はちょっと抜けてるところがあるけれど(授業に必要なプリントを忘れてきたり、大教室でのマイクやビデオの扱いが苦手だったり)、 学内の教授のなかでは比較的若くてなかなか話のわかる先生でもあり、ゼミ室をゼミ生に開放してくれているのがありがたい。
先生によっちゃゼミ生であってもゼミ室に一切立ち入り禁止、なんて人もいるみたいだし。
(それゼミ室って言わねーよ、と思うんだけど。)

「先生めずらしーですね、休日出勤ですか?」
「そー。論文の締め切り近くてー」

家じゃやる気出ないからねー、そう言って目じりを下げて笑う。
それはどこかで聞いた理由だわ、と思い、
机の上の問題集やらプリントやらをかきわけてスペースを作りながら、「ですよねー」と私は言った。

なんかまだまだ学生気分が抜けてない先生だよなあ、と、先生のこういうセリフを聞くと思う。
うちの常勤になって結構長いみたいだけど、学生と接してるとやっぱり若々しくいられるのかもしれない。
そもそも大学の女の先生って全般に、家庭臭というか、所帯じみた感じがしない気がする。
年配の人にしろ、若手の先生にしろ。
三橋先生にしたってそうだ、ゼミ室のこの乱雑さの全責任が三橋先生にあるとは言わないけれど、 「奥さん」ならもうちょっと小うるさく学生に注意したってよさそうなもんだ。
先生がおおらかであればこそ、うちのゼミ室には私物(教科書とか、図工の授業で作った粘土細工とか)が増えていくし、 冷蔵庫には個人のジュースやらチョコレートやらゼリーやらが増えていくのだ。
まあ、このフリーマーケット的なごちゃごちゃ感は決して嫌いではないんだけど。

金属製のキャビネットに磁石で貼り付けられた誰かの風景画を眺めつつ鞄を開けていると、 ファイルのなかに、来週先生に見てもらうつもりだった自己アピール文の下書きがあるのに気づいた。
せっかくだし今見てもらおう。

「あの、先生」
「んー?」
「お時間あったらでいーんですけど、これ見ていただけますか?アピール文」
「ああ、教採の?いいよ、今見ちゃう」

ちょっと息抜き、と言い、先生がうーんと伸びをした。

「じゃーお茶入れますか?」
「あ、じゃーお願いー。そーだ、おせんべいあるから開けようっか」

おいしいのもらったのよー、と言いながら、先生がごそごそ荷物を漁る。
三橋先生は「お茶の時間」が好きで、だからゼミ室の緑茶と紅茶とコーヒーを切らさないこと、 水回りは必ず清潔に保っておくことは、我がゼミ3年生の重要な役割だ。
その代わりお茶菓子は用意しなくてもいい。
放っておいても先生が買ってくるなりもらってくるなりするからだ。
先生自身が買ってくるのは普通のスーパーで売ってるお得パックとかファミリーパックだけど、 もらってくるものはなんだかやたらと高級そうなものが多い。
プラス「群馬の銘菓」率が高い。
聞いた話によると「ダンナ」の職場が群馬、らしい。

ゼミ室でのティータイムや昼食中(先生はゼミ生とだべりながら昼ごはんを食べるのが好きだ)、 家族の話題になったときだけ、三橋先生はふっと、「奥さん」もしくは「お母さん」の顔になる。
息子がちっとも部屋を片付けないだとか、 旦那さんは新聞を読んでるときやご飯を食べているときに何を言っても生返事でぜんぜん話を聞かない、だとか。
この春から、特に息子さんの話題が増えたような気がする。
事情はよく知らないけど、群馬の学校に通っていたのが、こっちの高校に入学してまたいっしょに暮らすようになったとかで      

不意に携帯のバイブ音がした。
私のじゃない、三橋先生のだ。

「あれ。      もしもし?」

ポットに水を注いで電源を入れ、沸騰するのを待つあいだにお茶の用意をする。
緑茶はまだあるけど、コーヒーの減りが早いなあ、みんな連日がぶ飲みするからなあ、なんて思っていると、 「え!?」という大きな声が背後から聞こえたのでびっくりした。
思わず振り返ると、三橋先生は電話を耳に当てて目を丸くしていた。
何か非常事態かな。

なんとなく不吉な予感が喉元をよぎったけれど、それを即座に裏切って、三橋先生は顔いっぱいに笑いを浮かべた。
なんだかとてもうれしそうな。

「そう、わかった!うん、10人ね!りょーかい!」

トランシーバーごっこをする子どもみたいなことを言って、先生は電源を切った。

「どうかしたんですか?」
「うん、ちょっと急用!帰らなきゃ」
「え」

2人分の湯飲みを準備していた手を止める。
三橋先生はあたふたとパソコンの電源を切っている。

「ごめんね、自己アピール、やっぱり来週でもいい?あ、それよかうちに持って帰って見てくるわ」
「あ、はい、いいですけど。なんか緊急事態ですか?」
「そー。子どもがね、うちに友達連れてくるって言うからー」

今日誕生日なのよ、実は。
手は机の上の資料をばたばたと片付けていたけれど、そう言った先生の顔はゆるりとした笑顔になっていた。

「へー。じゃあパーティーっすね」
「そーなのよもー。当日になって突然そんなこと言わないでほしいよねー」

愚痴っぽい言葉を吐いているものの、先生の顔は依然として笑っている。
息子さん、中学が群馬だったのなら、そういうイベント事をお祝いするのも久しぶりなのかもしれない。
先生の動作はどう見たって「いそいそ」という形容がふさわしい。
「うきうき」でもいいかもしれない。

「じゃあごめんね、戸締りよろしく!おせんべい食べていーからね」
「あ、はい、ってか先生これ!」

口早に言い置いてゼミ室を出て行きかけた先生に、肝心の自己アピールの下書きを慌てて突き出した。
先生は「あ、そうだった、ごめんごめん!」と慌ただしく謝ってそれを受け取り、 「じゃあ勉強がんばってね!」と言うと、嵐のように去っていった。

      楽しそーだなあ
私は特に結婚願望ってないけれど、さっきのような三橋先生を見ていると家庭をもつのも楽しいのかなあ、なんて思えてくる。
普段はまるで学生のように好奇心旺盛でうっかりしている人なのに、家族の話になるとあたたかい表情になる人。

しかし先生はパーティで、一方の私はお茶飲みながらせんべいかじって勉強に勤しむわけか。
それはちょっと切ない想像で、やれやれと思いながら、先生用の湯飲みを食器棚に片付けた。
先生のことだから、きっと張り切って巨大なケーキを買い、息子くんの誕生日を祝うのだろう。
いいなあと思ったときポットの電子音が鳴り、1人分にしては明らかに多いお湯が沸いた。