カウントゼロ





いつも通り阿部くんは私より先にお弁当を食べ終わって(阿部くんはいつも、きちんと手を合わせて「ごちそうさまでした」を言う)、
いつも通り私は阿部くんに置いてけぼりにされないように、お弁当にラストスパートをかけていたときだった。
この10分弱くらいの時間は沈黙に陥りがちだけど、それもいつものことだったから、私は特に気にしなかった。
沈黙自体、は。

私は予鈴と追いかけっこするみたいに黙々と、最後に取っておいた大好きな海苔巻きチキンをかじっていたけれど、
その最後の一口を口のなかに入れたときふと気づいた。
阿部くんが、じーっとある一点を見つめている。
右手に持った緑茶のペットボトルのふたが開きっぱなしになっていることも忘れたみたいに、じーっと。

それだけならまだちょっと気になるくらいですむんだけど、その、阿部くんが見つめているものっていうのは、どうも、私のほうにあるみたいで。
顔を見つめられているわけじゃないから私を、っていうんじゃないんだけど、でも確実に、阿部くんの目は私の手元のあたりをとらえている。

そしてそれは、私にとって石を肩にのせてるみたいに重い、プレッシャーになる。



……どうしよう。
何かあるのかな、私の手元。

慌てて視線を落として確かめてみたけれど、私の見る限りでは、変わったことは何も起きていない。
阿部くんに聞いていいのか悪いのか、考えているせいで噛んでいるものの味もわからない。
どうしよう、どうしようと迷っていると、阿部くんが不意に言った。

「ちっせえよな」
「……へ?」

最近わかってきたけど、阿部くんは結構マイペースな人だ。
こんなふうに突然、心のなかの独り言みたいなことをぽつりと声に出すことがときどきある。
依然として、阿部くんの視線は私の手元に固定されたままだ。

「な、なにが?」

私が口のなかのもの(きっと30回以上噛んだ。とっても消化にいいに違いない)を飲み込んでから尋ねると、阿部くんは「手」と一音で簡潔に答えてくれた。

「……手?」
「おー」

ということは阿部くんは、私の手元というより手そのものを見ていたみたいだ。
私はお箸を握っている自分の右手に視線を落とした。
そりゃあバスケットボールを片手でつかめるほど大きくはないけれど(バスケットボールどころかバレーボールも無理だ)、特別小さいと思ったこともない、見慣れた丸っこい自分の手。

「そ、そうかな……。ふつうじゃないかな」
「そーか?すげ小せえ気がする」
「……あ、指、短いから」

かも。
これは私にとって結構なコンプレックスなので、私の語尾はフェードアウトしていく。
「そーか?」と阿部くんはちょっと首をひねった。

「1オクターブ、めいっぱい広げないと届かないから」
「オクターブ?」
「あ、ピアノの鍵盤。ドの音から、その次のドの音まで、みたいな」
「ああ」

人よりやや短い私の指では、気を抜くとドとシになってしまったり、下手するとラになってしまうことさえあるのだ。
なるほど指の長さという視点に立てば、私の手は小さいかもしれない。

「んーでも、なんつか全体的に、ちせえ」

そう言いながら、阿部くんは私の手を見ている。
まじまじと、凝視といってもいいような見方を阿部くんがするから、私はどうにも居心地が悪くなってしまう。
はいどうぞと自信をもって見てもらえるようなきれいな手ではないのだ、恥ずかしい。
よく考えれば、さっきからずっと見つめられてたんだから今更なんだけど。
そう思うとなおさら恥ずかしくなってきた。



阿部くんはそんな私にはかまわず、ペットボトルのふたを閉めてそれを置いて、ほら、と右の手のひらを突き出した。
こんにちは、みたいなしぐさ。
その動作の意図がわからなくて、私は思わずまばたきをして見つめ直してしまった。

「……え?」
「比べてみ。小せえから」

無造作に突き出された阿部くんの手のひらと阿部くんの顔を見比べて、もしかして、と私は思う。
      これは、その手に、私の手を、重ねろってことですか……?

「へ、あっ、や、でも」
「なに」

      なに、って!
思わず心のなかで叫ぶ。

自慢じゃないけど私は男の子と手をつないだことなんてない。
フォークダンスだって中学でも小学校でもしたことないから、ほんとに一度もない。

いわんや好きな男の子の手をや、だ。
阿部くんの手に触ったことなんて一度もない。
そんな、恐れ多い!



「んだよ?」

阿部くんの声に、不審な色がほんのちょっとだけ混じった気がして、私は焦った。

      いやいや落ち着け私……!

そう自分自身に言い聞かせる。
別にくっつけなくたっていいんだ。
近づけるだけだって手の大きさの比べっこはできる。

そーだよ阿部くん別にくっつけてとか言ってないし!
意識しすぎ、自意識過剰すぎ。

そう繰り返して気持ちを落ち着かせたつもりになると、お弁当箱を置いて、ふたの上にお箸も置いて、そろそろと左手を差し出した。
突き出された阿部くんの手のひらから、少し離れたところまで手をもっていく。

阿部くんの手が、私の手とすごく近い。
私の手から、ほんの数センチ分の空気を挟んだ先に阿部くんの手がある。
なんだかその図を見ているだけで気恥ずかしくなってきて、私は目をそらした。
手が震えていること、どうか阿部くんに気づかれませんように。



そんなことを必死に願っていると、差し出した手のひらに、ひたん、と何かがくっついた。
え、と思って上げた目に、重なったふたつの手が飛び込んでくる。
片方は私の手、もう一方はもちろん、阿部くんの、手。

      っ!?」
「ほら、ぜんぜん小せえじゃん」

阿部くんの!
阿部くんの手!!

私の胸のなかに溢れている絶叫が声になったら、きっと学校中に響き渡って大騒ぎになると思った。
でも実際に私は声を上げることもできなかったから、阿部くんは平然とそんなことを言った。

私の頭は真っ白になっていて返事をすることなんてとてもできない。
阿部くんの手阿部くんの右手、いつもかばんやシャーペンや、ボールやバットを握っている阿部くんの右手。
そんなことしか考えられない。

      ど、どうしよう……!

私はこんなに動揺しているというのに、阿部くんは顔色ひとつ変わっていない。
おかしいのかな私……。



「つーかお前、なんか緊張してる?」
「っえ!?」

言い当てられてびっくりして、大きな声が出てしまった。
私の声に阿部くんも驚いた顔になる。

「え、イヤ、緊張してっと手のひら冷たくなるんだよ。お前手ぇ冷たいから」
「う、え、ちが、えっと、ま、末端冷え性だからっ」

おばさんみたいだと思われるかもしれないけど、意識し過ぎで緊張してるってばれてひかれてしまうよりもそっちのほうが100倍マシだ。

「冷え性?夏でも?」
「そ、そうっ」
「ふーん。大変だな」

でも夏はそっちのがいーか、なんて、阿部くんはのんきなことを言った。
よ、よかった、変には思われなかったみたい。



でもそうやってほっとしたのも束の間だった。
つき合わせていた手が不意に何かに包まれる。

      っ!!」

息が止まるかと思う。
何か、だなんて言ったけどもちろんそれは阿部くんの手、で。

阿部くんの手が私の手を握ってる。
阿部くんの手が阿部くんの手が阿部くんの手が、あの阿部くんの手が!

「ホントだ。冷たくて気持ちいーわ」

感心したみたいな口調で、阿部くんは言うけど。
私の体は阿部くんに握られた手から始まって、石になったみたいに固まっていく。
腕から肩へ、肩から全身へ。

「にしてもホントちっせえな。指ほっせえし」

阿部くんの指が手の甲を撫でるように動いて、脳みそがぐらぐら沸騰しそうになる。

阿部くんの手は熱い。
私の手が、阿部くんの指摘どおり緊張で冷たくなってるからなのかもしれないけど。
それに手の甲に感じる阿部くんの手のひらは、ごつごつというか、がさがさというか、そんな感じだった。
男の子の手ってこんななのかな、と思ったけど、すぐにああ違うと思い直す。

野球をがんばってる阿部くんの手だから、だ。

いいのかなと余裕のない頭で思う。
今私の手を握っている阿部くんの手は右手だから、キャッチャーミットをはめてピッチャーのボールを受ける手とは違うけど、阿部くんの手は右も左もきっと、野球をするためにあるのに。
右手でサインを送って、左手でボールを受けて、そうしてピッチャーの三橋くんにたくさん力を貸している、大事な大事な手なのに。

私の手なんか、握ってていいのかな。



「……あ、べくんっ」

なんとか喉から押し出した声に、阿部くんは「ん?」と言った。

「あ、あの、お弁当箱っ」
「弁当箱?」
「かた、づけなきゃ、だからっ」
「ん。ああ」

阿部くんは軽くうなずいて私の手を放してくれた。

かちこちになっていた体から力が抜けて、まるで阿部くんに、手じゃなくて心臓をつかまれていたみたいだ。
左手に意識を向けないように必死になりながら、私はお弁当箱を片付け始めた。
(きっと動きがぎくしゃくしてる、気づかれませんように!)

「やっぱ違うよな」
「え?」

ぱっと目を上げると、阿部くんは自分の右の手のひらを見ていた。
ついさっきまで私の手を握っていた手だ。

「っな、何が……?」
「お前の手」

私の手の、何が何と違うんだろう。
マイペースな阿部くんのしゃべり方はこういう感じ。
述語が先にこぼれて、それをちょっとずつ補足していく。

「ピアノってさ、長くやっててもマメとかタコとかできねーモンなの?」
「え……できないと思う。聞いたことない、し」

私はともかく、同じピアノ教室の優等生たちからも、教室の先生からも、マメやタコに悩んでるなんてことは聞いたことがない。
指が太くなるというか、骨ばってくる、みたいな話は聞いたことがある気がしたけど。

「三橋の右手、タコだらけなんだよな」
「……あ、ああ。ピッチャー、だから?」
「ただピッチャーやってるだけじゃ、あそこまではなんねえよ」

アイツは病的に練習好きだから。
そう言って阿部くんは、静かに、右手をぐっと固める。

阿部くんの声は決して乱暴じゃなくてむしろ穏やかなくらいだったけど、私は軽々しく「ピッチャーだから」なんて言ってしまったことを後悔した。

「ご、ごめんなさい……」
「は?」

なに謝ってんの、と阿部くんがきょとんとしたとき、予鈴が鳴った。

「あ、鳴った。もー行ける?」
「う、うんっ」

ペットボトルとお弁当箱を持って立ち上がる阿部くんに続いて、私も慌てて立ち上がった。







阿部くんの頭はほんとに野球でいっぱいなんだなあ、と思う。

5時間目の現国の授業、みんなの眠気を追い払う努力なんて最初から放棄しているみたいに、つらつらと教科書を読み上げている先生の声を聞きながら。
私はそれに合わせて教科書を目で追っているふりをしながら、教室の窓側、いちばんうしろの席に座る阿部くんをこっそり盗み見ている。

阿部くんは教科書をきちんと立ててはいるけど、視線はそこに向けられていない。
もっと下      机の上を見ている。
野球部関係の資料か何かを見てるのかな。
難しい顔をして、ときどき考えるように額をこすっている。

不満に思うべきなのかなあと考え込んでしまう。
今のところそんな気持ちは湧いてこない。
そんなの私何さまだよって感じだし。
ただただ感心してしまう。すごいなあって。

阿部くんが野球を大好きで、それをとてもとてもがんばっていることを、私は長い片思いの最中にも知っていたつもりだけど(ていうかそれくらいしか阿部くんに関する情報ってなかったんだけど)、私が思っているよりもずっとずっと、実際の阿部くんは野球のことしか考えてないみたいだ。
何を見ても、何を聞いても、何に      触っても(顔が熱くなる)、野球のことと関連づけてしまうくらいに。
今は夏の大会前だし、きっとそれが当たり前なんだろうけど。

阿部くんにとっていちばん大事なのは野球で、それなのに阿部くんがその野球をどれだけ好きなのか知らない私って、もしかしなくてもすっごくだめなんじゃないかなと思ってしまう。
さっきみたいに、三橋くんの手のことを簡単に「ピッチャーだから」なんて言葉で片付けてしまったり。
阿部くんのことを何ひとつとしてちゃんと知らないんだなと思う。



教科書からそろそろと左手をはずした。
開いたその手をそっと握る。
阿部くんの手は確かに私よりも大きくて、高い温度をもっていた。
初めて知ったことだ。

知らないことだらけなんだなあと思うと溜め息をつきたくなる。
彼女にしてもらえて、そうなる前とは比べものにならないくらい近くなったけど、きっと根本的な距離はちっとも変わっていない。
いっしょにお昼ごはんを食べたって、いっしょに学校から帰ったって、隣を歩いていたって。

近づいていけるかな。
近づいていけたらいいな。
ちょっとずつでいいから、もっとちゃんと阿部くんのことを好きになりたい。



      さっきのは、初めて手を繋いだ、ことにはならないよね

阿部くんが握った左手を自分の右手で包んで、やっぱりさっきのはノーカウントだと自分で決める。
野球のライバルにはなれなくても、せめて三橋くんのライバルに名乗り出られるくらいがんばろう、とりあえず。
固めた拳にそんな誓いを立てた。






(三橋と肩を並べるのがどんなに大変か、ヒロインさんはまだ知らない)
おまけ。7組垂れ目コンビです)