熱
シーズンオフで、朝5時集合という脅威の朝練が休みなのはもちろんうれしかったけれど、気が緩みすぎて遅刻寸前ぎりぎりセーフ、が多くなったのも事実だ。
その朝水谷が教室に滑り込んだのも予鈴が鳴り終わったあとで、自分の席に倒れ込んで長々安堵の溜め息を吐き出してから、「俺野球部でよかった……」としみじみつぶやいた。
「は?」
そう聞きとがめたのは斜め前の席に着いて、机の上に1時間目の教科書とノートまですでにスタンバイしてある花井だった。
眼鏡越しの、あきれたような不審そうな花井の視線を受け、やっと息の整った水谷はへらりと笑ってみせる。
「だってさ、俺、野球部じゃなかったら今より足遅いし体力もなかったワケでしょ。したら今日という今日は遅刻だったよ、きっと」
モモカンのしごきに感謝。
わりと本気で水谷が言うと、花井は「そんなトコで感謝されてもビミョーだと思うぞ」と生真面目な主将らしく監督を慮った。
もちろん花井は朝練がなくなったって遅刻しそうになったことなんてない。
ホントえらいなあ、なんて思いながらキャプテンを斜めうしろから眺めているうちに、
教科書に書かれた「数学1」のタイトルが目に飛び込んできて、「あ」と声を上げた。
「1時間目数Tだっけ?」
「そーだよ」
「うおー忘れるトコだった!阿部ー!」
肩から提げたままだったかばんから目当てのノートを探し出しながら、ひとつ隣の列の、ずっと前のほうに座っている阿部の名前を呼んだ。
ちらりと振り返った阿部のところへ、昨日借りていたノートを持っていく。
「コレありがとー!」
「あー」
間延びした阿部の返事を聞きながら、あれ、と思う。
そういうときの阿部の声に気が入ってないのはいつものことだが、隣の席が空いていたから、そのぞんざいさが気にかかったのだ。
「あれ?さんまだ来てねーの?」
「休みだって」
「え、そーなの。カゼ?」
「だってよ」
「あらー」
2人が隣同士になったのは今月頭の席替えだったから(水谷は結構本気で「阿部クジに細工したんじゃないの」と思ったのだが)、
もうほとんど1ヶ月前になるのだが、が真っ青になっていたのはよく覚えている。
よかったねー、という水谷の祝福に、彼女は泣き出しそうな顔をした。
「うれしくないの?」と聞くと、絶望的なか細い声で「緊張して授業どころじゃなくなる……」と答えたのがおかしくて、同時にちょっとかわいそうだった。
「心配だねー」
「まーただの風邪だっつってたけどな」
「イヤそーゆんじゃなくてさ」
まったく阿部はもうー、と思いながら水谷が反論しかけたとき本鈴が鳴り、同時に担任が教室に入ってきた。
「始めるよー」というお決まりの担任の声で水谷は席に戻らなければいけなかった。
ホントに冷たい彼氏だよ阿部は、という先入観ができあがってしまっていたし、このやりとりでそれが強化されてしまったし、
授業中に視界に入ってくる阿部の後ろ姿はいつもとまったく変わらなかったから、
阿部の視線のいきどころ 空っぽの隣の席 なんて、水谷は知らなくて当然だった。
携帯の音で目が覚めた。
目が覚めたといっても、すっきり起きたわけじゃなくて、アラームなんてかけておいた覚えないのにどうして鳴ってるんだろう、とぼんやり思った。
頭はまだ重く、体はだるくて熱かった。
携帯を止めるのも億劫で、しかたなく、無意味に寝返りをうつ。
携帯から流れているのは大好きなアーティストのちょっと古めの曲で、いちばん気に入っているラブバラードだったから、
これを聞きながらもうひと寝入りしよう、と私はふとんにもぐったまま思った。
サビの部分の歌詞を頭のなかでなぞりながら、ふと気づく。
あれ、そういえばこの曲はアラーム音じゃない。
今アラーム音に設定しているのは、最近はまっているバンドの新曲のはずなのに。
そこまで考えたとたん、38℃の熱を出している身としてできる限りの素早さで跳ね起きて、枕もとの携帯をつかんでいた。
サブディスプレイの表示を確認するまでもない。
いちばんのお気に入りのこの曲が携帯から鳴り響くのは、いちばん大好きな人からの電話を知らせるときだけなんだから。
「も、もしもしっ」
『あ、俺だけど』
阿部くんの声が、言った。
「うん、ごめんね、取るの、遅くてっ」
『いーよ。つかワリ、寝てた?』
「ううんっ」
起きてた、と、私は勢いよく嘘をつく。
目覚まし時計に目をやると、学校は昼休みの時間だった。
「起きてたぁ?」と言う阿部くんの声の向こうからは、けれど昼休みの教室のざわめきは聞こえなかった。
『寝てろよ。風邪っぴきのくせに』
「う、あ、ごめん……」
なんだか矛盾したことを阿部くんは言って、だけど反射的に私は謝る。
『熱は?』
「下がった、と思う」
2度目の嘘は、ちょっとだけためらってしまった。
『思うって何だよ』
「ま、まだ測ってないから。でもたぶん下がってる」
『ちゃんと測れよ』
「う、うん」
そう言われたから、朝お母さんが机の上に置いていった体温計をたぐり寄せた。
阿部くんがちょっと黙ったので、「もうお弁当食べた?」と聞いてみた。
『あー。お前は?なんか食った?』
「あ、まだ」
『食欲あんの?』
「うん、たぶん」
『だーからたぶんて何だよ』
「え、あ、ごめ」
もごもごと私が謝ると、阿部くんが「いーけど」と言った。
ちっともよくなさそうな声。
電話越しにも溜め息交じりなのがわかって申し訳なくなる。
せっかく電話してくれたのに。
これじゃ阿部くん、つまらないよね。
そう思うのに次に言うべきことが見つからなくて、私は熱のせいでいつもよりさらに回らない頭で焦った。
けれど今度は阿部くんがしゃべって、沈黙の前兆を打ち消してくれる。
『あのさあ』
「あ、うん」
ぴしりと背筋を伸ばして阿部くんの声に集中する。
今度はちゃんと答えようと身構える。
それだけに、次の阿部くんの言葉の衝撃は大きかった。
『すげー会いてんだけど』
「 は」
『会いてえの、めちゃくちゃ』
頭がぐらりと揺れた。
熱のせいではなく。
ええと、この言葉に対するちゃんとした返事ってなに?
私がそれを見つける前に、阿部くんの言葉は続いた。
『今さ、席隣じゃん』
「へ、あ、うん……」
『で、毎日会うだろ、フツーに』
「うん」
『夏休みとか冬休みはしゃあねえじゃん。そもそも学校がないんだから、あきらめつくし』
「……うん」
あきらめがつく、の感覚がちょっとわからなかったんだけど、
それに関してあれこれ考えを巡らせる余裕はなくて、とりあえず私はうなずく。
だから気ぃつかなかったんだけどさ、と阿部くんの声はあくまで淡々としていた。
『俺ってこんないっつもお前に会いたかったんだ、て』
今度ぐらりと揺れたのは頭だけじゃなかった。
体全体がよろめいて、ぽすんとふとんに沈み込んだ。
熱が上がり過ぎて、自分に都合のいい夢を見ているんじゃないかと疑う。
けれど携帯はそのまましゃべり続ける。
間違いなく阿部くんの、大好きな阿部くんの声で。
『だけど授業はあるし、部活はあるし、絶対会いに行けねーじゃん』
「……うん」
相槌を打ちながら、ああ夢じゃないや、と私は納得した。
部活があるし、のところが阿部くんらしくて、ああ阿部くんだと思ったからだ。
都合のいい夢なら、授業も部活も放り出して阿部くんがお見舞いにきてくれる、とかいう展開になるはずだ。
そうならないからこれは夢じゃない。
『だから早く治せよ』
「……うん」
『メシ食って薬飲んで水分とって寝てろ』
「うん」
『暇だからって間違ってもテレビなんて観てんじゃねーぞ』
「……はい」
『じゃー切るわ。オヤスミ』
「あ、うん……あ、あの阿部くん?」
切ると言ったからには阿部くんは即座に電話を切ってしまうので、私は慌てて呼び止めた。
どうにか間に合ったみたいで、電話の向こうから「ん?」と聞き返す声が聞こえる。
「今どこ?」
『は?学校に決まってんじゃん』
「や、あの、そじゃなくて……学校のどこ?」
『ああ。非常階段とこ』
「あ、そ、そう」
よかった、という安堵の言葉は胸のなかだけで、声には出さなかった。
『それがなに?』
「え、ううん、なんでもない。あの、電話、ありがとう」
『おー。じゃーな』
「うん」
今度こそぷつっという音がする。
終わりはいつもその音、とてもあっけない。
私もボタンを押して、それから改めて枕に顔をうずめた。
会いたいって。
阿部くん、会いたいって。
リピートすると、今すぐ家を飛び出してトライアスロンにでも挑戦したいほどじっとしていられないような、
世界の誰の目にも見えないほど小さく縮まりたいような、そんな気持ちが衝突して胸のなかが騒がしく、とりあえず私は枕をぎゅう、と抱きしめた。
念のため、握りしめたままだった携帯をぱかっと開ける。
着信履歴のいちばん上には、大丈夫、ちゃんと「阿部 隆也」という私の大好きな四文字があった。
夢じゃない。
顔が、にやけるのがわかる。
そんなときにドアをノックする音と「ー?」というお母さんの声が聞こえたものだから、私は思わずベッドの上でばっと起き上がった。
「はいっ?」
「あ、起きてたんだ。なあに、ふとんの上で正座なんかしちゃって」
「べ、別に!」
部屋に入ってきたお母さんは不思議そうに私を見つめて首をかしげた。
「熱測った?まだありそーね、顔まっかだよ」
「い、今、測ろうとしてたっ」
「あそ。お昼どうする?おかゆ作ってあるし、出かけるから何か欲しいなら買ってくるけど」
「あ……じゃあおかゆ食べる。あと、ポカリ欲しい」
「え、珍し。いつもは飲めって言っても飲まない人が」
お母さんが目を丸くする。
風邪のときはしっかり水分とらなきゃなんだから、と言って、我が家では風邪をひいたらスポーツ飲料を推奨されるんだけど、
私はあのねばっこい甘さがどうしても苦手で、大きくなってからはそれを拒否していた、いつもは。
「今日は飲みたい気分なんです」
「ふーん?まあいーけど。あとなんか観たい映画ある?」
「へ?」
「いるし、なんか借りてこようと思って。ほら、の好きな俳優さん、あの人が出てるの、もうレンタルやってるんじゃないっけ?」
風邪で学校を休んだ日、暇を持て余して録り溜めた映画を観るのもうちの習慣だった。
だから私が「別にいい」と断ると、お母さんはポカリのときよりもっと驚いたみたいだ。
「え、いーの?」
「うん、いい」
ご飯食べて薬飲んで水分とって寝るの。
私がそう言うと、お母さんは不審そうな顔になった。
「なーに、そんな風邪ひいた人のお手本みたいなこと言って。あの映画早く観たいって言ってたじゃなーい」
「今日はいーの」
確かに劇場で見逃したその映画を観るのを私はずっと楽しみにしてて、主演男優は私の大好きな俳優さんだけど、
あいにくと私にはもっと楽しみなことがあって、もっともっと好きな人がいる。
私も会いたいって、ドラマみたいには言えなかったから。
早く風邪を治して、明日は絶対学校に行く。
私だって毎日毎日阿部くんに会いたいんだよ、ちゃんとそう言えなかったから、代わりに明日からは、ちゃんと毎日あなたに会いに行く。
(阿部くんは教室で電話する気満々でしたが主将によって追い出されました)
(おまけ。翌日のこと)
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