ほんとは祈ることさえできなかった





願いごとが叶う、ということに私は慣れていない。
そんなことに慣れてる幸せな人が、この世にどのくらいいるのかは知らないけど。

そりゃあ、今日の夕飯オムライスがいいな、とか、次の授業自習になったらいいのに、とか、 そういう小さなことは、たまーに(ホントにたまに)叶っちゃったりはする。
でもそれはタイミングの問題って気がする。

そりゃあ高校は希望通りのところに入れたけど、受験勉強はそれなりにがんばったし、 こういうのは願いごとっていうか、どっちかといえば目標、だと思う。
自分の努力次第っていう、ちょっとシビアな範囲。

そういうのじゃなくて、私が言いたい願いごとっていうのは、もっと大それていて、自分の力ではどうしようもないこと。
神さまの領域っていうか。
例えば、死んでしまった愛犬が一日だけかっこいい男の子になって戻ってきてくれるとか。
不時着した砂漠で小さな王子さまと出会うとか。

      叶う見込みなんてまったくなかった、2年間の片思いが報われる、とか。



「それファンタジーじゃん。フィクションじゃん」

イタイからやめなよ。
冷静なちゃんの声が、横から聞こえた。

うん、と私は答えたけれど、ごめんねちゃん、正直これは生返事です。
フェンス越しに、この間「彼氏」になったばかりの元片思いの相手の阿部くんを眺めている真っ最中だから、ちょっとくらいの上の空は我慢してね。

「今日もかっこいい……」

視線の先の阿部くんは、今はバッティングの練習中で、花井くんのうしろでバットを振っている。
あんな遠いのによくわかるね、とちゃんには言われたけど、2年の間に培った「阿部くんを見つける目」は伊達じゃない(いばることでもないけど)。

確かに遠いので、阿部くんの顔まではっきり見えるわけじゃない。
でもきっと阿部くんは、あの強い目で、ヘルメットの下からピッチャーのほうをぎゅっとにらみつけている。
野球をしているときの無表情なのに真剣な顔が、ものすごく、そりゃあもうものすごく、かっこいいのだ、阿部くんは。

「……さあ。今までは大目に見てたけど、付き合い始めた以上そーゆーのはノロケだと見なすからね」
「大目に見てたっていうか、ちゃんスルーしてただけでしょ」
「だっていちいち付き合ってらんないんだもん。てゆーかなんで依然としてあんたの阿部くんウォッチングに付き合ってるのかな私。しかも前と変わらずストーカーちっくだし」
ちゃんがついてきたんじゃん!私別に誘ってないし!」
「そーだけどー」

ストーカーっていう呼び方は、ちょっぴり自覚があるだけに、すっごくやめてほしいんだけど。
でも実際、練習中の野球部の人たちからは見えないように、植木の陰に隠れてこっそり見つめてるって、すごくストーカーぽい状況だから大声で反論はできない……。

「こんなこそこそしなくてもさー。言えばいいでしょ、阿部くんが野球してるとこ見たいなー、とでも」
「む、無理だよ!てゆーか似てないよ、私の声真似」
「なんでよ。いーじゃん、彼女なんだからそのくらい」
「……言えないもん、そんなの」
「言いなよそのくらい。てゆーか、ちゃんと会話できてるの?阿部くんと」
「え、あー      ……あ、終わりみたい」

バッターボックスに入っていた人も、ネットのうしろで素振りをしていた人も、バットを置いた。
ばらばらと散らばり始めた野球部の人たちの姿に、私は「よし」と言った。
今日の阿部くんウォッチング、終了。

ちゃん、もう行こ」
「え、声かけてかないの?」
「かけないよ。ほら、みんなボール拾いに来るんだよ。見つかっちゃうかもしれないから、早く行こうよ」
「別にいーじゃん、見つかったって」
「だめだよ、ストーカーみたいなことしてたんだから!」
「だーから隠れてるからストーカーみたいなんだってば!名乗り出なよ、堂々と!」
「いーから!行こ、ねっ」
「えー?もー……」

ぶつぶつと文句を言うちゃんの腕を引っ張って、第二グラウンドから校舎へと向かった。





「ねー。ほんとに大丈夫なのー?」
「大丈夫だよ、ちゃんと丸つけしてあるでしょ?」
「イヤそーじゃなくて」

野球部の朝練を覗いてからだと、教室に着いて朝のホームルームが始まるまで、時間に余裕がある。
ちゃんはその余裕を利用して、まだ空席の多い7組にやってきて、お隣の水谷くんの椅子を黙って拝借して、私の数学の宿題を写していた。

7組では同じところが一昨日の宿題に出されて、昨日の授業中に答え合わせをしたから、間違った答えを写すことになんてなりませんよ?
そんな意味を込めて答えてみたけれど、ちゃんはじろりと私をにらんで、
私は自分の知らんぷりがあっさりと見抜かれていることを悟る。

「えー、あー……大丈夫だよ。……たぶん」
「会話できるようになった?」
「……聞かれたことには答えてるよ」

自分からは話ふれないけど。

手元のウォークマンを無意味にいじった。
音楽を聴きながら人と話すのは苦手なので、イヤホンはつけてない。
だからちゃんとの会話もとってもスムーズだ。
溜め息までしっかりクリアに聞こえます。

「てゆーか昼だってさ。結局部室に行ってるんでしょ?今までどーりに」
「そ、そんなことないよー」
「ほかの子から聞いてるから知ってるんだよ」

嘘つこうったって無駄だからね、と軽くにらまれる。

「阿部くんといっしょしたの何回よ?」
「……だ、だって、阿部くん、いつも野球部の子と食べるし」

回数を答えるとよけいにちゃんに怒られそうだったので、私は先回りして言い訳をした。

「食べ終わったら、そのまま話してるか寝ちゃうかだし。昼休みでも部活のことでいろいろ話さなきゃいけないんだなーとか、練習疲れるんだなーとか思うと、邪魔するのもどうかって気がするし。
……そもそも、自分からいっしょにごはん食べようなんて、誘えない、し」

もごもごと私が言うと、ちゃんはノートから顔を上げて、ちょっと眉を上げた。
あきれた、のしぐさだ。

「誘いなよ、そんくらい。ソレほんとに付き合ってるの?」
「……で、でも、朝は毎日あいさつするんだよ?」
「イヤただのクラスメイトでもあいさつくらいするし」

痛いところを突かれてしまったのでがんばって反論したのに、返り討ちにあってしまった。
それでも私にしてみればスゴイ進歩なんだよちゃん……。

「いーもん別に。いっしょにごはん食べてても緊張しちゃうし。何話せばいいかわかんないし」
「ぜんぜんいっしょにいないからなかなか慣れないんでしょーが」

ぴ、とシャーペンの先を鼻に突きつけられる。
ご説ごもっともです。
言い返せなくて口をつぐんで、イヤホンの線をくるくる巻いて片付けていると、ちゃんがまた溜め息をついた。

さー。せっかく両思いになったんだから、もっとこー、自信もちなよ」
「自信……ですか」

縁のない言葉だなあ、としみじみ思う。
今だってなんで阿部くんが私みたいな平平凡凡とした子を彼女にしてくれたのか、ぜんぜんまったくわからない。
神さまの領域だ。

「じゃないともったいないって」
「んー……。でも、その称号自体がなんかもーすでにもったいないっていうか……」
「称号って?」
「……えー、あー、だからその、阿部くん、の」

彼女、っていう。

ああだめだ。
考えるだけで畏れ多くてしかも照れくさくて、普通の顔色じゃいられない。
ちゃんの邪魔になるのもかまわず机に突っ伏して、足をばたばたさせた。

信じられない信じられない信じられない。
ファンタジーでフィクションだ。

頭の上からちゃんの、あきれて物も言えない、と言いたげな声が降ってくる。

「あー。いいよわかった。皆までゆーな」

書けないから早く起きてよと言われて、私は顔を上げる。
へへーと、照れ笑いをして見せると、 ちゃんは今度は開いた口がふさがらない、みたいな顔で、でも寛大に笑い返してくれた。

「てゆーか称号って。大げさだなー。たかが星の王女さまでしょ」
「へ?なに、王女さまって」

砂漠に不時着したとき出会うのは、王女さまではなく小さな王子さまなのに。
そう思って指摘すると、「だからー」とちゃんは説明してくれた。

「阿部くんがお星さまなんでしょ。だから阿部くんが星の王子さま。ゆえには星の王女さま」
「……何それ!」
「おばちゃんとそーゆー話をした」
「どんな話よそれー!」
は高校生にもなって乙女ちっくなうえにメルヘンチックで困るよねーっていう話?」
「私言ってないからね!?阿部くんがお星さまだなんて一言も!」
「まあねー。星なんてかわいいガラじゃあないよねー。王子さまでもないしー」

ちょっと失礼じゃないですか、と思ったものの、自分で全力で否定した直後だから文句は言えない。

「ん。ねえ、ここってなんでこうなんの?」
「え、どこ?」

ここ、とちゃんに示された自分のノートを見つめる。
それは最後の問題で、私が自分で解いた証のシャーペンの答えには大きくバツがつけてあり、その横に赤ペンで数字が書いてある。
もちろんそれが正しい答えで、途中の数式もちゃんと書いてあるんだけど。
あれ、この数式の出どころはいったいなに?

私はノートに並んだ自分の字をまじまじと眺めた。
数秒して、ああだめだ、これはどれだけ見つめたって、初めてお目にかかった問題としか思えないということに気づく。
つまり、簡単に言えば、忘れた。

「……ごめん、わかんない」
「何それ。昨日やったとこでしょー?」
「う、うん、たぶん。あれ?えー、なんでだろ……」

先生なんて言ってたっけ。
ちゃんのあきれ顔に見守られながら、教科書とノートとを見比べて昨日の授業を思い出そうと脳みそを振り絞ってみた。
ちゃんと聞いてたはずなんだけどな……。

「ちょ、ちょっと待ってね。えーと……」
「使う公式がちがってる」

突然天から降ってきた声。
私の脳のひらめきでもなく、ちゃんの声でもない。
とんとん、とノートの上の件の問題の部分をたたいている指は、間違いなく第三者のもので。

その指をたどってその持ち主      阿部くんを確認したとき、声でわかっていたとはいえ、私はびっくりして思わず椅子ごと後ずさりせずにはいられなかった。

「これ等差じゃなくて階差数列だろ」
「ああ、そっか」

なんの前触れもなく現れた阿部くんにちゃんは平然と対応する。
阿部くんの指摘にすんなりと納得して、自分のノートにさらさらと答えを書き込んでいるちゃんを、私は心の奥底から尊敬する。
その理解力に、ではなく、人見知りとの縁のなさに。

すすすすごいなあ……!
私はこんなに動揺しまくってるのに。

てゆーかさっきの会話、聞かれてないよね?
お星さまだの王子さまだの、無駄にメルヘンチックな単語ばっかりの意味不明なアレを聞かれたらさすがにひかれる、と思うと私の血の気はさあっとどこかへ逃げていく。

「どーもー」
「あー。つーかコレ、こないだの実テにも似たようなの出てただろ」

阿部くんの視線がついと私に向けられる。
あ、阿部くん普通だ。
よかった、聞かれてなかったみたいだ。

けれど安心する間もなく、慌てて記憶をあさってみなければいけない。
この間の実力テスト実力テスト。
でもいくら考えてみても、数学のテストなんて、解けたのも解けなかったのも、どんな問題があったかなんてちっとも思い出せない。

「えー?こんな問題あったっけ?」

てゆーかトウサとカイサって何が違うんだっけ。
そう言いながら阿部くんの肩からひょいと顔を出したのは水谷くんだった。

「アホか。聞いてろよ授業」
「つか終わったテストの問題なんて覚えてないってフツー。ねー、さん」

阿部くんの言葉をやや無視して、水谷くんがふにゃりと笑ってくれる。
よ、よかった、仲間がいた。

「あ、ごめんね水谷くん、ちゃん、椅子」
「あーはいはい。お借りましたー、ありがとう」
「いーえー」

ちゃんが立ち上がってお礼を言うと、水谷くんはやっぱり笑顔でそう返事をしてくれた。
いい人だなあ、笑顔、和むなあ。
ぽやーっと温かい気持ちになっていると阿部くんに「」と呼ばれて、慌てて気を引き締める。

「な、なに?」
「今日って部活ない日だったよな」
「え、あ、うん」
「ウチも今日ミーティングだけなんだけど」

いっしょに帰らねえ?



たっぷり5秒間は、阿部くんを見つめてしまったと思う。
真正面からこんなに阿部くんのことを見るのって最長記録かもしれなかった。

「アラ。いーなー、俺もいっしょに帰りたーい!」
「テメーは方向ちげーだろうが」
「え、つっこむとこソコ?」

阿部くんと水谷くんがそんなやりとりを交わしているあいだに、
、とちゃんにつつかれて、私はやっと忘れていた呼吸を取り戻した。
「都合わりぃ?」と首をかしげる阿部くんに、頭を左右に振る。
それだけでは怒られてしまうのはもうわかっている。
返事はちゃんと声に出して。

「っわ、悪くないよ」
「ミーティングって何時に終わるの?」

数学のノートを腕に抱いてちゃんが聞いた。
物怖じしないよなあ、ちゃんて。
中学のときも、ちゃんは阿部くんと同じクラスになったことってなかったはずなんだけど。

「あー。だいたい7時までには終わるけど」

なんか阿部くんも普通に会話してるし。
阿部くんの返事を聞いて、ちゃんはちょっと顔をしかめる。

「……で、放課後からその7時まで、この子はどーしてればいいわけ?」
      あー、そっか」

今気がついた、みたいに阿部くんはちょっと目を大きくした。

「さすがにそんな何時間も暇潰せねぇか」
「っだ、だいじょぶだよ」
「大丈夫ったってどーすんの。私は付き合わないよ?」
「今日ピアノ、だから」

ちゃんは「あーそうだっけ」と言い、阿部くんと水谷くんの「ピアノ?」という声がかぶる。

さんピアノ習ってんの?」

私がうなずくと、水谷くんは天真爛漫に「スゲー!カッコいー!」と言ってくれた。
そんな讃辞をもらうにはあまりにお粗末な腕前なので、私はうれしいとか照れくさいというより申し訳なくなってしまう。

「や、別に、すごくもかっこよくもない、んですが……!」
「えー、スゲーよ。なあ阿部!つか知ってた?」
「知らない」
「え、ナニソレ彼氏のくせに」
「うっせえな」

阿部くんの顔がたちまち険しくなる。
水谷くんがきっとなんの悪気もなく口にした「彼氏」という言葉に、私はまた恥ずかしくて申し訳なくてもったいないような気持ちになりながら、慌てて言葉を押し出した。

「教室、駅の近くだから。あ、阿部くんのほう終わったら、連絡してくれたら、学校戻ってくる、から」
「そんな何時間もやんの?ピアノって」
「あ、私のほうが早く終わると思うけど、練習室があって、そこで待ってればいいから。練習しながら」

そこまでしゃべって、私は思わずひとつ深く呼吸をした。
阿部くんに向かってこんなに話したのも、初めてかも。
ちゃんとしゃべれたかな。
私の説明でわかってくれたかな。

不安に思っていると、阿部くんは「ふうん」とつぶやいて、「じゃー俺が終わったらメールすりゃいいんだな?」と言ってくれた。
よかった、ちゃんと伝わってた。

「う、うん」
「わかった。じゃー放課後な」
「うんっ」
「今日はちゃんと授業聞いてろよ」

釘を刺さしてから、阿部くんは窓側のほうの自分の席へ行ってしまった。
情けなさと恥ずかしさのこもった私の蚊の鳴くような「はい」という返事は、きっと聞こえていない。

どうしよう……。
イタイやつ、とは思われなかったみたいだけど、頭悪いやつって思われてしまったみたいだ。
どっちもどっちで恥ずかし過ぎる。
阿部くんは成績いいし、やっぱりバカな彼女じゃ釣り合わない気がする。

ていうか頭だけじゃなくてやっぱりいろいろ釣り合わない気が……!



私が頭を抱えたくなっていると、ちゃんが肩をたたいて「よかったじゃん、」と言った。

「よくないよどうしよう……。私もっとちゃんと勉強しなきゃ……!」
「は?勉強?会話術の?」
「へ?」

会話術ってなに、と思ってちゃんを見上げると、「だって阿部くんと2人で帰るんでしょ?」とちゃんが首を傾げる。

「いっぱい話せるといーね」

じゃーねガンバレ。
予鈴が鳴り、そのセリフと笑顔を私に残して、ちゃんは7組の教室を出て行った。

ちゃんの背中を見送って、さっきまでの阿部くんとの会話を思い返して、私は改めてぎょっとした。
阿部くんと話すとき、私は阿部くんの言葉を聞くことそれに受け答えすること、 つまり会話すること自体にイッパイイッパイになってしまって、その内容はあとからよく噛みしめる、みたいなことが多い。
だから今回もこんなふうに、動揺はあとから襲ってくる。

阿部くんといっしょに帰る。
夢見ることすら恐れ多かったシチュエーションが、あと数時間後に現実になる、なんて。
阿部くんに「いっしょに帰らねえ?」って聞かれたときは、ほとんど反射的に飛びつくみたいに承諾の返事をしてしまったから、 私はこの奇跡みたいな状況に、今更ながら(大げさだけど)めまいを覚えそうになる。

うれしいのと感動的なのと信じられないのと、不安と緊張がぶわっとこみ上げてきて、私は一瞬何がなんだかわからなくなった。
すると横から水谷くんの声がする。

「よかったねー、さん」

隣の席を見ると、机に頬杖をついて、水谷くんはにこにこと笑っていた。
な、和むなあ。
水谷くんの笑顔はあったかいなあ、と思うと、私の感情の波はちょっと落ち着いて、ごちゃごちゃしていたものがひとつにまとまった。
不安なとき心配なとき、いつも感じる喉もとのいやな感じ。

「阿部と帰るの初めてでしょ?てゆーかそういうカップルっぽいの初めてじゃない?」

楽しみだねえ。
まるで自分のことみたいにうれしそうに、水谷くんは言ってくれる。
その口調があんまり柔らかくて優しいから、私の舌は知らず知らずのうちに緩んでしまう。

「で、でも、どうしよう、私、ちゃんと話せるか心配、で」
「ちゃんと?」
「話すの、あんまり得意じゃない、から……」

学校から家まで、ずーっと会話なしの状態が続いたらどうしよう。
頭悪いやつ、どころか、つまんないやつ、って思われてしまう。
いっしょにいたって楽しくないって、阿部くんに思われたらどうしよう。
そんなことを想像すると死んでしまいたくなる。

「そんな心配しなくてだいじょぶだよー」

水谷くんは、そんな私の悪い想像を振り払うかのようにひらひらと手を振った。

「話すの得意じゃないなら阿部にしゃべらせときゃいいじゃん」
「……へ?」
「そりゃ阿部は無口だし、話題つったら野球しかないけどさ。野球のことならきっとずーっとしゃべってるよ。それぜんぶ付き合ってたら、きっと家通り越して埼玉も飛び出して日本横断できちゃうよ」

ヤベ、冗談で言ってたのになんか阿部ならホントにやりそう。
水谷くんはそう言って、おかしそうに笑った。

「で、でも私、野球って基本的なルールくらいしかわからないんだけど……」
「だからだよ。教えて?って言ったらモノスゴイ情熱傾けて語ってくれるって」

野球命だもん、アイツ。
なんだかとっても説得力を感じる水谷くんの口調に「そうなのかな」と私がつぶやいたとき、
それにかぶさるようにチャイムが鳴った。

「そーだよ。それにさん聞きじょーずだし、心配ないって」

聞き上手。
思いもよらないほめ言葉に私は「えっ」と思ってしまう。
そのとき先生が教室に入ってきた。

「はい始めましょう」

委員長の起立礼の号令のあと、椅子と床の立てるがたがたした音にまぎれて、小さく「ガンバレー」と言った水谷くんの声と笑い顔は、私の意気地のない心をほっこりと勇気づけてくれた。






(等差とか階差とか、ぜんぶ雰囲気)