星が降った日





放課後の教室。
少し黄色がかった、束ねた白いカーテン。
窓の外の、薄いオレンジ色の光。

黒板消しのクリーナーのスイッチを切ると、耳障りな音が消えて、
第一グラウンドの喧騒と吹奏楽部の練習の音がまあるく響いてくる。

県内のどこの高校の、どの教室をのぞいても、この時間帯はきっと、同じ顔をしてるんだと思う。
そんな平凡な、どこにでもある放課後の教室の風景。



この平凡な景色のなか、私が何をしているのかといえば、まあ、これもやっぱりベタに日直です。

少しでも長く教室に背を向けていたくて、念入りに丁寧に黒板消しをきれいにしたけど、これ以上は無理だ。
ぴかぴかになってしまった黒板消しを右手に固く握り、私は振り向くか振り向くまいか迷っていた。
      ら。



「終わった?」
      っ」

いきなり声をかけられて、私は飛び上がりそうになる。
その拍子に黒板消しを床に落としてしまった。
かつん、と軽い音が教室に響く。

      き、きれいにしといてよかった……!



床を汚さずにすんだことにほっとしたのも束の間、今度は少し驚いたような声が飛んでくる。

「何やってんだ?」
「っえ、あ、わ、ごめんなさい……!」

我に返って、私は慌てて黒板消しを拾い上げた。
そのまま背中を向けて、黒板の端っこにそれをのせる。
今度は落としたりしないように気をつけながら、私はもうすでに泣きそうだった。

      ど、どうしよう……。絶対とろいやつって思われた……



「そっち終わった?って聞いたんだけど」

黒板と向き合って固まってると、今度はそう声をかけられた。
ごとごと鳴りっぱなしの心臓が喉元まで飛び上がる。

お願いだからもうちょっとだけ静かにしてて!
私は声をかけてくれた人にではなく、自分の心臓に向かって祈った。

「お、お、終わ、りました……っ」
「なんで敬語?」

あきれたような声音で、でも阿部くんは「お疲れさん」と言ってくれた。
そして阿部くんの視線が机の上に戻ったので、私はほんの少しだけほっとした。

阿部くんの席が、後ろのほうでよかった。
もし阿部くんが最前列に座っていたりしたら、日誌を書いていて私のことなんて見てるわけないってわかってても、 私はのんきに黒板のそうじなんてしていられなかったと思う、絶対。
背後が気になって気になって、呼吸困難になってしまったかもしれない。
今だってこんなに心臓がばくばくいってるのに。



「じゃーこっちもできた、と」

阿部くんはそう言って、ぱたんと学級日誌を閉じた。
シャーペンをペンケースにしまって、ペンケースを大きなエナメルバックのなかにしまって、がたんと音を立てて椅子から立ち上がる。

その一連の動作は、私の脈拍数をさらに増やした、と思う。

      ちょ、ちょ、ちょっと待って、まだ心の準備が……!

そんな私の心の叫びなんて聞こえるわけもなく(聞こえてたら困るけど!)、
さっさと帰り支度をすませてしまった阿部くんは、学級日誌をもって机と机の間を通ってこっちへやってきた。

「日誌、俺持ってくから」
「う、え、わ、私、持ってくよ?」
「いーよ別に。じゃーな」

あっさり言って、阿部くんは教室を出て行ってしまおうとする。

待って。
待って。

焦りと恥ずかしいのと悲しいのがごちゃごちゃになって胸のなかで膨らんで、私はそれを吐き出すように、阿部くんの白いシャツの背中に声をかけた。

「あ……あ、阿部、くんっ!」

恥ずかしい……!
声ひっくり返った、しかも必要以上に大声が出ちゃった……!

振り返った阿部くんの顔もびっくりしている。
そりゃあんな変な声で呼ばれたら誰でもびっくりするよ!
もー私のバカ!!

「なに?」
「……っ、あ、あの……」

うつむくと声が出なくなってしまいそう。
でも阿部くんの顔を直視するのはできない。

「なんか用?」

ほら、阿部くんも困ってる。
言うなら早く言わなきゃ、阿部くんには部活があるんだから!

私は全身の力をすべて首の関節に集中させて、ぐいっと顔を上げた。
そして、不審そうな阿部くんの顔に向かって、言った。

「わた、私、あの……!」

阿部くんのことが、ずっと好きでした。







今時少女漫画でもやらないようなベタなシチュエーションでの、なんのひねりもない告白だけど、この一言は私の二年間の片思いのフィナーレなのだ。

私は阿部くんと同じ中学で、さらに中二のときには同じクラスだった。
でも阿部くんは、私のことなんて知らないと思う。
ていうか知らない。

自分で言うのもむなしいけど、私は中身も外見も地味で平凡で目立たなくて、 阿部くんに好きになってもらうことはおろか、存在を気にとめてもらえるようなクラスメイトじゃなかったから。

好きになったりするんじゃなかった!
と、何度も後悔した。
好きになるならせめてもうちょっと、手が届きそうな人を好きになればよかった!と。

阿部くんも、クラスのなかでは決して目立つ人ではなかった。
スポーツは得意だし顔もかっこいいけど、あんまりしゃべらないしちょっと怖そうだし、 女の子のなかでちょっとだけ人気があるのは知っていたけど、それだけなら私も憧れこそすれ、好きになったりしなかったんだ。

でも私は見てしまったから。
見てしまったんだ。
阿部くんという人が、いちばんかっこいい瞬間を、この目で。



そもそも気まぐれを起こして、弟の野球の試合を観に行ったりするんじゃなかった!
と、何度も後悔した。
何度も。

そこでうっかり、なんだかどこかで見たことのある人だな、なんて、相手チームの背番号2番をまじまじ見たりするんじゃなかった!と。
あれ、ひょっとして阿部くん?なんて、気づいたりするんじゃなかった!と。
どちらかといえばおとなしい、教室での姿とはちがう、
あんなに一生懸命に声を出して、打って、走って、野球をしたりする阿部くんを見たりするんじゃなかった!と。
試合に勝つと、あんなにかわいい顔をして笑うんだ、なんて、思ったりするんじゃなかった!と(弟のチームが負けたのに!我ながらひどい姉だ)。
あんなにかっこいい人だったんだ、なんて、思ったりするんじゃなかった!と。
それから何かと理由をつけて、お母さんにくっついて弟の試合を観に行くたび、阿部くんのことを探してしまうんじゃなかった!と。
いつの間にか教室でも、気になって気になってしかたなくて、つい授業中に見つめてしまったり、何かと目で追ってしまったり、するんじゃなかった!と。

本当に、数え切れないほどの後悔が、ある。

好きになったって、教室であいさつをする勇気もないくせに。
2回あったバレンタインデーも、2回とも、用意したチョコレートを渡せなくて、結局自分で食べてしまったような臆病者のくせに。

未練がましく同じ高校に来たりして!
(西浦を選んだのには、レベルと通いやすさと制服なしっていう理由もあったけど!)



しかも高校に入っていきなりクラスメイトになってしまってから、私は本当に真剣に悩んだ。

このままじゃ、高校三年間も報われない片思いで終わってしまう!
青春らしい青春もしないまま高校生活が終わっちゃう!
そんなのさびしい!

野球漬けの阿部くんだけど、いつかはきっと、美人で優しい彼女ができてしまうだろう。
(同じ中学出身の篠岡さんは野球部のマネージャーだし。同じクラスだし。
かわいいし性格もすごくいいし、残酷なくらいお似合いだ。)

阿部くんと未来の彼女が仲睦まじそうにしているのを想像してはのたうちまわるような苦しみを覚え、 このままでは本当にいけない、という思いを強くした私は、一世一代の告白を決意したのだ。

当たって砕けろ。
玉砕で結構。
これではっきりとふられてしまえば、やっと私は、阿部くんをあきらめられる。

叶うはずのない恋を終わらせて、もっと身近なところで幸せを見つけるんだ!







と、いうような心境だったから、阿部くんの次の言葉を待つ私には、悲しいとかそういうのはあんまりなくて、 きちんと気持ちを伝えられたという達成感でいっぱいになっていた      

はずだった。

これで阿部くんをあきらめられる。
そりゃあ、そんなにすぐには気持ちはなくならないだろうし、しばらくはつらいと思うけど、ふられちゃったらどうしようもないもん。
きっとすぐに新しく好きな人が見つかるよ。
私まだ15歳なんだし!

そんなふうに思っていた。
はずだった、んだけど。



実際、ぶつけるような告白を終えた私の体は、震えてしかたがなかった。
あれ?おかしいな。
怖い。

阿部くんの返事を聞くのが怖い。

グラウンドの喧騒。
吹奏楽部の楽器の音。
それに混じって、「悪いけど」って、そんな言葉が聞こえてくるのが怖い。

そこは確かに教室なのに、私は断崖絶壁を背にして立ってるみたいな気がした。

どうしよう。
取り消したい。
冗談です忘れてくださいって言って、走って逃げたい。
達成感なんてどこにも見当たらない。

後悔の数が増えてしまった。
何が当たって砕けろ、だ。

ふられる勇気もないくせに、好きでなくなることもできないくせに、なんで好きになったりしたんだろう。





涙が出そうになって、私は慌ててうつむいた。
だめだ、絶対泣く。
そんなことしたらますます阿部くんにうざいやつって思われちゃう      

「そーなの?」

阿部くんの声が降ってくる。
次に来る言葉を聞きたくなくて、私は本気で、耳をふさぐかわめき散らすか、どちらかを実行しそうになった。

「じゃあ付き合う?」
      え……?」

空耳だと、思った。

そろそろと顔を上げた。
いつもと変わらない表情の阿部くんが立っている。
私と目が合うと、阿部くんは少し首をかしげた。

「なに。いや?」
「……え?」
「付き合うの、いやなの?」

俺のこと好きなんじゃねぇの?

淡々と確認されて、首を縦に振る。
かくんと、まるで人形みたいに。

「でも付き合うのはいやなわけ?」

まばたきも忘れて、私は阿部くんの顔を見上げていた。
え、阿部くんなに言ってるの?

私があまりにもぽかんとしていたからか、阿部くんはちょっと眉をしかめた。

「聞いてんの?」

慌てて、もう一度首を縦に振る。
すると阿部くんの眉間のしわがぎゅっと濃くなった。

「お前それどっちかわかんねーよ。声に出して答えろ、声に!」
「っき、聞いてる!」
「……いやソコじゃなくてさ      
「つ、付き、合う!」

大きくなった阿部くんの声につられて、勢いみたいに、言ってしまっていた。
やっぱり声は震えていて、しかもやっぱり必要以上の音量で。

阿部くんはきょとんとしていたけれど、ふっと笑ってバッグを肩にかけ直した。

「じゃーお前、今日から俺のカノジョな」

気ぃつけて帰れよ。

背中越しにそう言い残して、阿部くんは教室を出て行った。





放課後の教室。
少し黄色がかった、束ねたカーテン。
窓の外の、薄いオレンジ色の光。

取り残された私は、阿部くんの背中を見送ったままの姿勢で、そのなかに立ち尽くした。
グラウンドの喧騒も吹奏楽部の練習の音も、耳を素通りする。

頭のなかを、さっきの阿部くんの言葉だけがぐるぐる回っていて。
      じゃーお前、今日から俺のカノジョな





      どういうこと?