星が降った日
1時間目のチャイムが鳴り終わって、起立礼の号令のあと、教室が休み時間の顔になった途端だった。
「阿部ーぇ」
聞き慣れた緊張感のない声が横手から近づいてきた。
教科書をしまう手を止めて顔を向けると、水谷が阿部の机に突進してきたところだった。
「さんちょー慌てて行っちゃったよ?」
「あー?」
答える阿部は上の空だ。
阿部が眺めているのは教科書とも授業用のノートとも明らかに違う。
こないだやった練習試合のスコアだ。
クジで引き当てた席が前のほうで(今回は真ん中の列の前から2番目だった)、
「さすがにそこだと後ろのやつがちょっとキツイかな」ということで移動させられるのには、もう慣れてる。
でも移った先が阿部の隣っていう偶然が、なんていうかちょっとアレだ。
阿部は「クジ運ねーなお前。どうせ移動させられんならはじめっから後ろ引けよ」といつもの調子で無茶なことを言い、
水谷は「ずっりい2人で固まって!俺だけ離れててつまんねぇ!」とやっぱりいつもの調子でわめいたっけ。
机を並べて授業を受けるようになって気づいたけど、阿部はわりとまじめに授業を受けない(変な日本語だけど)。
退屈な授業だとうつらうつらしてるときもあるし、
得意科目の数学の時間とかは、授業と内職の割合が6:4くらいになってんじゃないかと思う。
板書とかはきっちりやってるみたいし、何より内職っつっても部活に関することばっかだからおおっぴらに非難する気になれねーんだけど。
「ねー阿部聞いてるー?」
スコアから顔を上げない阿部の気をひこうと、水谷は阿部の机の前にしゃがみ込んで阿部を見上げている。
田島も相当な末っ子気質だけどコイツも負けてねえよなといつも思う。
かまってもらいたがり、っていうか。
「ねーねー」を繰り返す水谷に、阿部が「うっぜーなもう!なんだよ!」と軽くキレて顔を上げた。
「だーからさんだってば」
「あ?あいつがどーしたよ?」
「だからー。号令終わったらさ、話しかける間もなく飛んでっちゃったよ?って言ったんだよ」
「次体育だからじゃね? あー、俺らも行くか」
今日外だっけ、と、席を立った阿部がこっちを向く。
いつもと変わらない無表情な阿部の顔だ。
知り合って二ヶ月、だいたいの性格とかは把握したつもりだったんだけど。
「……阿部さあ」
「あ?」
「さっきのはなに」
「は?さっきの?」
さっきのってなんだよ、と聞き返してくる阿部に、照れ隠しをしている様子はない。
阿部の顔に浮かんでいるのは疑問の表情そのものだ。
こいつ、ほんと……
俺が言うのかよ。
しかもなんっで俺のほうが恥ずかしくなんなきゃいけないわけ?
俺がそんな理不尽な思いを噛みしめているのを悟ったのか
いや違うな、こいつのは単なる好奇心だろ、ともかく水谷が勢いよく俺の代弁をしてくれた。
「決まってんじゃん!なんでいきなりさんと付き合うことになってるわけ、阿部」
がば、と立ち上がった水谷に詰め寄られた阿部は、一瞬きょとんとしてから、「あーなんだソレかよ」と言った。
なんだ、って
その反応もなんというか、意外といえば意外だし、阿部らしいといえば阿部らしいと感じてしまって、
結局「やっぱり阿部ってよくわかんねぇ」という結論に落ち着いた。
「ねー阿部。ねーってばー」
「うるせー。しかもウゼー」
「なんだよ教えてくれたっていーじゃんか!」
部室へ向かう途中、水谷の「ねーねー」はひっきりなしに続いた。
どっちが告ったの?
昨日っていつ?
つか阿部、さんとそんな仲良かったっけ?
ずらずら並ぶ質問を、隣を歩く阿部は流しっぱなしだ。
照れ隠しとかじゃなくて、単純に水谷をうざがってる。
でも水谷にめげる気配は一向になくて、また俺はキレる阿部をなだめなきゃいけないんだろーか、と溜め息をつきたくなる。
水谷もやめときゃいいのに。
「うおーい7組ー!」
鍵を開けて部室に入りかけたとき、でかい声が背中にぶつかって、次にどん、と鈍い衝撃がきた。
「ってぇよ田島!」
「背後あめーぞ!」
「うっせ!」
人に思いっきり頭突きを食らわしておいて「ははは」と笑う田島の後ろに、三橋がおどおどと立っていて、その横には傍観を決め込んでいる泉がいて、
そのさらに後ろには「朝から元気だなー」と笑う浜田の背の高い姿があった。
クソ、なんだこのむかつくパノラマは
「お、三橋聞けよ!」
水谷が9組の面子に気づいて三橋に声をかける。
三橋はいつものようにびくりとして「ひっ?」と妙な声を上げた。
「夫婦のキキだぜ!」
「ふへっ?」
「阿部だよ阿部ー!浮気してんだぜお前のニョーボ!」
「浮気ぃ?」
頭のうえいっぱいにはてなを浮かべる三橋の代わりに、田島と泉と浜田が反応した。
「なになに、浮気ってどーゆーことっ!?」
この手のネタが大好きな田島が目を光らせる。
「なんかいー投手でも見つけたの?」
「っ!?」
悪気のない浜田の言葉に、三橋がガツンと衝撃を受ける。
それに気づくようになったあたり、俺もちっとは三橋になじんできたんだろうか……。
「あー三橋ちげぇって。水谷も誤解招く言い方すんなよ」
「え?あ、ごめんごめんっ」
今にもボロボロと泣き出しそうな三橋の顔に気づいて、水谷が慌てて謝る。
「ピッチャーじゃなくてさ、阿部にカノジョができたんだよって話 ぶっ!」
言葉の途中で水谷は奇声を上げた。
後頭部にキャッチャーからの牽制球、ではなく、体育用のジャージを入れてあるアディダスの袋が命中したからだ。
あー……。だからいい加減にしとけっつってるのに
「水谷てめーぺらぺら言いふらしてんじゃねえ!」
「んだよ人目も気にせず俺の彼女宣言したくせにぃ!」
「あぁ!?」
「え、阿部カノジョできたの!?」
「マジ?だれだれ?」
「あーもーお前らとにかくさっさと着替えろ!」
授業に遅刻すんだろ!野球部そろって遅れたりしたらぜってぇ俺が怒られるんだ!
そんな気持ちも込めて怒鳴ると、後ろで浜田が「花井も大変だねぇ」とつぶやくのが聞こえた。
マジで大変だよ誰なんだよ7、8、9組合同体育なんて授業のわりふり決めやがったのは!
世の中ほんとに理不尽だ。
なんてことを、思ったりした。
2時間目が体育でよかった。
私はあんまり運動が得意じゃないから、体育もそんなに好きじゃないんだけど。
今日ばっかりは。本当に。
その体育がちゃんのクラスと合同で、ほんとにほんとによかった!
「で、私にどーしろっての?」
私が朝のホームルームと1時間目の間の短いあいだに起こった信じがたい出来事と、
そのあとのこと(1時間目の授業終了と同時に体育用のジャージとシューズを引っつかんで教室を飛び出したこと)を、
洗いざらい息もつかずに説明したあとの、ちゃんのコメントはこうだった。
「え……や、私は、ちゃんにどーしてほしいとか、そういうんじゃなくて……」
すっと視線をそらした先では、色とりどりのTシャツ姿の女の子たちがバスケをしている。
今は7組のAチームと9組のAチームが対戦中。
今日の体育は、女子が体育館でバスケ、男子がグラウンド(何やるのかは知らない)の日なのです。
各クラスにAB2チームずつあって、バスケのコートは2面しかない。
だから7、8、9組の3クラス合同のこの体育では、9チーム中5チームはお休みで、試合観戦という名のおしゃべりタイムになる。
私はその時間を利用して、ちゃんに朝のことを報告したのでした。
ステージの上、ほかの子たちから離れた隅っこで並んで体育座りをした、ちゃんの顔をうかがう。
「ど……どうすればいいと思う……?」
「どうって。よかったじゃんメアドと番号ゲットできてー」
そう言うと、ちゃんは私に携帯を突き出した。
私の幻覚でも妄想でも夢でもないということを確認してほしくて、見てもらったのだ。
無造作に差し出された携帯を受け取って、もう一度、待ち受け画面からアドレス帳を呼び出す。
1時間目にも、机の下でこっそり何度も確認した。
やっぱり、幻覚でも妄想でも夢でもない。
「阿部 隆也」という、証拠の文字。
名前の下に並ぶ11桁の番号と、英数字たちを眺めて私は思わずつぶやく。
「これ、電話するととんでもないところにかかったりするんじゃ……」
「……あんたさ、ほんとに阿部くんのこと好きなの?」
どんな嫌がらせする人よ、それ。
あきれたようにちゃんは言うけど。言うけれど。
「だってありえないよこんなの。なんで阿部くんが私にメアドと番号教えてくれるの?」
「彼女だからでしょ?」
そこなのだ、私の最大の疑問点は。
「なんで阿部くんが私なんかを彼女にするの!?」
「……さあ。そーゆーことは本人に聞きなよ」
「そ、そんなの聞けるわけないよ!」
自慢じゃないけど、2年間の片思い中、私が阿部くんとまともに会話したことなんて一度もないのだ。
朝のあいさつだけでいっぱいいっぱいなのに!
「そんな込み入ったこと聞けないー!」
「……そんなんで阿部くんと付き合えんの?」
はー、と、溜め息まじりのちゃんの言葉に、私は固まった。
付き合うって。
阿部くんと私が付き合うって……。
いっしょに話したりいっしょに笑ったり?
いっしょにお弁当食べたり、いっしょに学校から帰ったり?
休みの日には二人でどこかに遊びに行ったり?
それだけじゃなくて、手をつないだり……
抱き合ったりキスをしたり?
漫画やドラマのなか、周りの何組かの恋人同士の行動を思い浮かべて、私は、その男女二人に私と阿部くんをそれぞれ当てはめようとしてみた。
ざーっと。音を立てて血の気が引いた。
「想像つかない!!」
「え、想像くらいはつくでしょ。てゆーか妄想だけど」
「無理!だめ!できない!てゆーかしたくない!なんか、考えちゃいけないこと考えてるみたいで後ろめたい!」
「いや……あんた一応彼女なんだから後ろめたくはないでしょ……」
「だから!彼女にしてくれるはずないんだってばー!」
「またそこに戻んの!?」
そう。
何をいくらどう考えたって、結局そこに戻ってしまう。
これは絶対、何かの間違いだ。
阿部くんが私なんかのことを彼女にしてくれるなんて
「もーうざいなぁ!もー知らないよ私はっ」
そう言うとちゃんは立ち上がった。
しまった、怒らせちゃったみたい。
「っだ、だってほんとのことなんだも……」
「あんたのそれは妄想は妄想でも被害妄想!阿部くんは付き合うって言ったんでしょ?のソレは逃げてるだけじゃん」
はーもー、と、ちゃんは怒った目で私を見下ろす。
「だいたい、ふられるのも付き合うのもいやなら告白なんてするべきじゃないよ。そんなの自己満足だよ。相手のことなんてぜんぜん考えてないじゃん」
「ち、ちが……っ」
「何がちがうの?阿部くんはちゃんとの気持ち受け取ってくれたのに、は言いっぱなしで逃げてるじゃん」
あんたほんとに阿部くんのこと好きなの?
さっきと同じ質問、だ。
ちゃんそれは、聞くだけむだなこと、というやつで。
大きな声で「好きだよ!」って言えるくらいなら、こんなに考え込んだりしない。
阿部くんのことは好きだよ。
それは間違いないんだよ。
阿部くんが、もし私の気持ちを迷惑とかうざいとか、思ってないならそれは、すごくすごくうれしいことだ。
でも信じられない。
阿部くんを、じゃなくて、私を。
「……で、でもちゃん。私は、かわいくも美人でもないし、取り柄も、なんにもなくて」
もしかしたら、阿部くんを好きになったりする資格もないのかもしれない。
ましてや好きになってもらう資格なんて
「知ってるよそんなの」
はっきり言われてさすがにぐさっときた。
いくらなんでもちょっとは否定してよ!
そんな気持ちを込めてにらむと、ちゃんの表情が緩む。
「なーに。自分で言ったんでしょー」
「そーだけど!」
「でも私もおばちゃんものことスキだし」
にっこり笑ったちゃんが、私の頭を「よーしよし」となでる。
……スキはうれしーんだけど。
お母さんとか友達にまで嫌われてたら、さすがに生きてけないよ、私。
「だから阿部くんもモノズキなんじゃん?」
「……ものずき……」
「そ、モノズキ」
喜んでいいのか、落ち込むべきなのか。
でもちゃんが励ましてくれてるのはわかった。
「……ありがとちゃん」
「お礼は早いでしょー。ちゃんと自分で確かめるんだよ?阿部くんがどうモノズキなのか」
「え……」
確かめるって言ったって、いったいどうすれば……!
私が固まったとき、チーム交代を告げる笛の音が鳴った。
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